「高等学校日本史B/立憲体制の確立」の版間の差分

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「五日市憲法」
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== 自由民権運動 ==
[[File:Taisuke ITAGAKI.jpg|thumb|150px|板垣退助(いたがき たいすけ)。土佐藩の上級武士の出身。]]
 
征韓論にやぶれて政府を去っていた者のうち、板垣退助(いたがき たいすけ)・後藤象二郎・江藤新平は、1874年1月に<big>'''民撰議院設立の建白書'''</big>(みんせんぎいんせつりつ の けんぱくしょ)を政府に提出した。
 
そして板垣退助は1874年4月には故郷の土佐に帰って片岡健吉(かたおか けんきち)とともに'''立志社'''(りっししゃ)を創設した。
そして翌1875年には、板垣のよびかけで各地の民権派士族が大阪にあつまり、民権派士族の全国組織である'''愛国社'''(あいこくしゃ)が結成された。
 
 
いっぽう、政府側の大久保利通は、板垣退助と、台湾出兵に反対して参議を辞職していた木戸孝允(きど たかよし)と大阪で会談し('''大阪会議''')、板垣・木戸の両名に参議に復帰するように大久保は頼み、また、復帰の条件として立憲制のための政治改革を約束した。
 
同1875年4月に '''漸次立憲政体樹立の詔'''(ぜんじ ~ みことのり)が出され、この結果、
:左院・右院が廃止されて元老院が設置され、
:最高裁判所として'''大審院'''(だいしんいん)が設置され、
:地方官会議が設置された。
 
いっぽう、政府は同1875年、<big>讒謗律</big>(ざんぼうりつ)と'''新聞紙条例'''を制定し、反政府的な言論を取り締まった。
 
== 士族反乱 ==
征韓論争でやぶれた江藤新平は、故郷の佐賀に帰っていた。士族反乱は、西南戦争よりも「佐賀の乱」や「神風連の乱」(じんぷうれんのらん)が先。
 
1876年に熊本で「神風連の乱」が起きた。翌1877年に西南戦争が起きた。
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== 私議憲法草案 ==
1881年以前からも、民間人による私憲法案(しぎけんぽうあん)は、いろいろな人物により、さまざまな草案が出されていた。
 
1881年、いよいよ将来的に憲法制定が本格化しそうだと話題になると、1881年に福沢諭吉系の交詢社(こうじゅんしゃ)が「私憲法案」を出したのがきっかけに、他社や民間人も憲法案を出した。
 
植木枝盛(うえき えもり)による憲法草案は『東洋大日本国国憲按』(とうよう だいにっぽんこく こっけんあん)は、それより後。
 
植木の草案は有名だが、べつに、こいつが最初ではない。単に、植木の草案の『東洋大日本国国憲按』は内容が急進的だったので、有名なだけ。(「国憲按」は「こっけんあん」と読む。)
 
千葉卓三郎(ちば たくさぶろう)が書いたと思われる「五日市憲法」(いつかいち けんぽう)という私擬憲法案もある。「五日市憲法」は人権規定が詳細という特徴がある(※ そのため、歴史学的には、のちの日本国憲法との関係などの観点でも「五日市憲法」が注目されている)。
 
このほか、自由党系(つまり板垣退助系)の立志社の『日本憲法見込案』(~みこみあん)という私擬憲法案もある。
 
== 政争のあれこれ ==