「高等学校日本史B/立憲体制の確立」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
「五日市憲法」
立志社建白
68 行
[[File:Eiri jiyuu sinbun 1.jpg|thumb|300px|自由民権運動の演説会<br>政府は「集会条例」や「新聞紙条例」などを制定し、その条例によって、政治などの演説をするには警察の許可が必要とされた。そのため、自由民権運動の演説はたびたび規制された。
]]
 
西南戦争の最中の1877年、立志社の片岡健吉らは政府の国会開設などをもとめる建白書を天皇に提出しようとしたが(立志社建白)、このときは政府によって拒否された。
 
1880年(明治13年)に、各地の自由民権運動の代表が大阪に集まり、'''国会期成同盟'''(こっかい きせい どうめい)をつくり、署名を集めて、政府に対して国会開設を要求した。いっぽう、'''大隈重信'''(おおくま しげのぶ)は、イギリスにならった憲法をつくるべきと主張し、ただちに国会を開こうとして、岩倉や伊藤らと対立した。
 
1881年に政府が北海道開拓使の施設を安く、商社に払い下げようとして問題になった('''開拓使官有物払い下げ事件''')。
 
このため、民間からの政府への批判が高まり、政府への国会開設の要求が、さらに高まった。政府は払い下げを中止した。
また、政府はこの世論に大隈重信が関係しているとして、大隈を罷免した。
 
 
88 ⟶ 91行目:
 
 
このような理由もあり、政府は、すぐには民議院を開かず、10年以内に国会(こっかい)を開くことを国民に約束した 国会設立の詔(こっかいせつりつ の みことのり) を1881年にだしました。実際に、10年後の1890年に国会が開かれます。
 
{{-}}