「高等学校日本史B/幕藩体制の動揺」の版間の差分

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田沼時代
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しかし1732年、享保の大飢饉が起き、翌年、江戸で米問屋に対する打ちこわしが起きた。
 
== 田沼時代 ==
10代将軍家治のとき、1772年に田沼意次(たぬま おきつぐ)が側用人から老中になった。
 
この頃、ロシアがオホーツク海の近隣に進出しており、ロシアはアイヌとも交易をしていた。
 
仙台の医師の工藤平助は、そのような状況について書籍を書いて『赤蝦夷風説考』(あかえぞ ふうせつこう)を著した。
 
工藤の研究成果が幕府の耳にも入り、田沼は最上徳内らに蝦夷地の調査を命じた。また、田沼は、ロシアとの交易も企画したが、最終的に失敗に終わった。
 
 
経済政策では、田沼は、年貢に頼る財政では限界があると考え、商業の経済力を活用して財政再建をしようとする政策を目指した。
 
田沼は、銅座や人参座や真鍮座(しんちゅうざ)など、扱う商品ごとに'''株仲間'''を認め、営業税として'''運上金'''や'''冥加金'''を取って、税の増収をした。
 
 
なお、田沼意次は、大阪の商人資本を活用して下総(しもうさ、現在の千葉県あたり)の印旛沼(いんばぬま)および手賀沼(てがぬま)の干拓工事を試みたが、(利根川の)洪水で、1786年に中止になった。
 
 
長崎貿易では、金銀の獲得のため、銅の輸出を目指すとともに、海産物(ふかひれ、いりこ、ほしあわび、等)の「'''俵物'''」(たわらもの)の輸出を目指した。
 
 
いっぽう、幕府役人のあいだで、賄賂(わいろ)による人事が横行するなど、問題になった。
 
また、1782〜83年ごろに凶作が起き(冷害が原因だと言われる)、さらに1783年に浅間山の噴火が起き、<big>天命の大飢饉</big>(てんめいの だいききん)となり、東北地方で多くの餓死者を出した。
 
このため、全国で百姓一揆や打ちこわしが起こり、田沼意次は失脚した。なお、この間、田沼意次の子の田沼意知(おきとも)も暗殺されている。