「高等学校日本史B/幕藩体制の動揺」の版間の差分

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田沼時代
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また、1782〜83年ごろに凶作が起き(冷害が原因だと言われる)、さらに1783年に浅間山の噴火が起き、<big>天命の大飢饉</big>(てんめいの だいききん)となり、東北地方で多くの餓死者を出した。
 
このため、全国で百姓一揆や打ちこわしが起こり、田沼意次は失脚した。なお、この間将軍家治が死去すると、田沼意次の子の田沼意知は老中を罷免おきともひめんも暗殺されている、失脚した
 
== この頃の学問 ==
=== 洋学 ===
8代吉宗が将軍になる前の1695年、天文学者の西川如見は、長崎にあつまる世界地理の情報をもとに『華夷通商考』を表した。
 
その後、1716年ごろに吉宗が将軍になり、漢訳洋書の輸入を許可して、洋学が発達した。
 
そして、吉宗は、'''青木昆陽'''(あおきこんよう)や'''野呂玄上'''(のろ げんじょう)にオランダ語を学ばせた。
 
[[ファイル:Yamawaki-Toyo-Zoshi-9-Organs.jpg|thumb|220px|『蔵志』の解剖図]]
[[File:Kaitai Shinsho 29-1.png|thumb|解体新書。]]
医学では、洋学よりも先に、山脇東洋(やまわき とうよう)が1754年に、実際の解剖観察にもとづく知見をまとめた『蔵志』(ぞうし)を発表し、大まかな解剖図ではあるが、人体の内臓の大まかな様子が分かった。また、これらの研究により、解剖観察による実証的な解剖学への関心が高まった。
 
その後、医師の前野良沢(まえの りょうたく)は、目にした西洋の医学書にある精密な解剖図などの図におどろき、前野はオランダ語の医学書を翻訳しようと思い立ち、晩年の青木昆陽からオランダ語を習った。
 
そして、前野良沢は杉田玄白(すぎた げんぱく)とともに、オランダ語の解剖書を翻訳し、1774年に『解体新書』として発表した。この『解体新書』には、かなり正確な人体解剖図があり、人々をおどろかせた。
 
前野・杉田らは自分らの学問を「蘭学」と読んだため、オランダ語の翻訳によって輸入された学問は、以降「蘭学」と呼ばれるようになった。
 
 
ついで、良沢の門人である大槻玄沢が入門書『蘭学階梯』(らんがくかいてい)を出した。また、宇田川玄随(うたがわ げんずい)は、西洋医学の内科書の翻訳書を出した。
 
また、大槻玄沢の門人である稲村三伯(いなむら さんぱく)が、日本最初の蘭日辞典である『ハルマ和解』(はるまわげ)を1796年に出した。
 
いっぽう、田沼意次よりも9歳ほど若い平賀源内(ひらが げんない)は、長崎で学んだ科学知識をもとに、摩擦発電機や寒暖計などを作成したり、西洋画法を日本に伝えたりした。
 
このような洋学の普及により、西洋のさまざまな自然科学が輸入された。
 
=== 国学 ===
日本の古典を実証的に研究する'''国学'''(こくがく)は、元禄時代に契沖(けいちゅう)による『万葉集』の研究によって始められた。
 
その後を継いで、'''荷田春満'''(かだの あずままろ)や'''賀茂真淵'''(かもの まぶち)が、日本の古代思想を研究した。
 
特に真淵は、仏教や儒学が伝わる前の日本の古代思想を研究する必要性を主張した。
 
賀茂真淵より約40歳ほど若い本居宣長は、国学の研究を目指して賀茂真淵の弟子になって学んだ。
 
そして'''本居宣長'''は、35年間もの歳月をかけて古事記を研究し、『古事記伝』をあらわし、
 
また宣長は、『源氏物語』なども研究し、日本のこころの本質は「もののあはれ」であると、宣長は主張した。
 
真淵に学んだ盲目の塙保己一(はなわ ほきいち)は、幕府の援助を受けて、和学講談所を設立し、古典の収集・保存・分類を行い、『群書類従』(ぐんしょ るいじゅう)を出した。