「高等学校日本史B/幕藩体制の動揺」の版間の差分

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寛政の改革
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真淵に学んだ盲目の塙保己一(はなわ ほきいち)は、幕府の援助を受けて、和学講談所を設立し、古典の収集・保存・分類を行い、『群書類従』(ぐんしょ るいじゅう)を出した。
 
== 松平定信 ==
=== 寛政の改革 ===
[[ファイル:Matsudaira Sadanobu.jpg|thumb|350px|松平 定信(まつだいら さだのぶ)]]
 
田沼意次(たぬま おきつぐ)が失脚し、新しい老中として<big>松平定信</big>(まつだいら さだのぶ)が1787年に老中になり、定信は11代将軍家斉(いえなり)に仕えた。定信はもともと奥州白河(おうしゅうしらかわ、福島県)の藩主。
 
ちょうど、その1787年のころ、江戸で天明の打ちこわしがあった。
 
定信は、吉宗の時代の政治を理想と考え、緊縮的な政策を行った。松平定信の行った改革のことを <big>寛政の改革</big>(かんせいの かいかく) という。
 
* 食糧問題
飢饉(ききん)により、まず、食料生産を増やさないと国が危険な時代になってるので、定信は、食料生産を増やす政策を取る。
 
定信は、農民による江戸への出稼ぎを制限し、江戸に出稼ぎに来ている農民を農村に帰らせた(旧里帰農令(きゅうり きのうれい))。また、各地に食糧を貯蓄するための社倉(しゃそう)や義倉(ぎそう)を立てさせた(囲米(かこいまい))。
 
* 経済問題
武士相手に米の売却業と金融業をする職である札差(ふださし)による6年以前の武士への借金を放棄させた(棄捐令(きえんれい))。かわりに、幕府は札差に低利で融資を行った。
 
また、江戸の町々に町費を節約させ、節約金の7割を積み立てさせ(七分積金(しちぶ つみきん))、災害や飢饉のさいの資金源にしようとした。
 
江戸の石川島に人足寄場(じんそく よせば)をつくり、無宿人を強制的に収容し、教育をして定職につかせようとした。
 
 
* 寛政異学の禁(かんせいいがく の きん)
湯島の学問所(のちの昌平坂学問所)では、朱子学以外(異学)の学問を禁止した。(儒学の派には、朱子学の他にも陽明学(ようめいがく)などがある。)
朱子学が正式な儒学である正学(せいがく)とされ、(陽明学などの)他の派の儒学は異学(いがく)とされた。
 
* 出版統制
民間に対しては、出版統制を行い、政治への風刺や批判を取り締まった。
 
これにより、林子平が『海国兵談』などで海防の必要性をとなえたことが、幕府批判と捕らえられ、処罰をされた。
 
そのほか、洒落本の出版を禁止した。このため、洒落本作家の山東京伝(さんとう きょうでん)などが弾圧された。
 
 
=== 朝廷問題と定信の退任 ===
松平定信が老中の時代の1789年、光格天皇が実父に与える称号について、朝廷は幕府に同意を求めてきたが、定信はこれを拒否した(「尊号一件」 (「そんごういっけん」))。
 
この尊号一件の是非をめぐって、定信は将軍家斉と意見が対立し、1793年、定信は老中の座から しりぞいた。
 
松平定信の退任後も、しばらくの間、寛政の改革と似たような政策が続いた。
 
 
=== 諸藩の改革 ===
寛政の改革のころ、それぞれの藩も、改革を行い、倹約や農業育成などにつとめた。
 
藩の財政収入を増やすため、特産品の生産と専売に力を入れる藩もあった。
 
また、藩校を設立して、教育に力を入れる藩もあった。
 
 
米沢藩の上杉治憲(はるのり)、秋田藩の佐竹義和(さたけ よしまさ)が、この時代の藩の名君だと言われる。
 
=== 民衆の反感 ===
狂歌には、
:世の中に 蚊ほど うるさき ものは(わ)なし ぶんぶ(文武)といふて 夜もねむれず」
:白河(しらかわ)の 清きに魚の 住みかねて もとの濁り(にごり)の 田沼(たぬま)こいしき」
と、うたわれた。
 
「蚊ほど」は、「これほど」の意味の「かほど」と かけている。「ぶんぶ」は、蚊の羽音のぶんぶんと、文武をかけてる。
 
「白河」とは、元・白河藩主の松平への皮肉。「田沼」とは、田沼意次と かけている。