「高等学校日本史B/幕藩体制の停滞と諸藩の改革」の版間の差分

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高等学校日本史B/幕藩体制の動揺 2018年6月3日 (日) 23:18‎ から、ラクスマン以降を引用。こちらに移動する。
 
雄藩
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その後の同年、越後では国学者 生田万(いくだ よろず)が大塩の門弟と称して陣屋を襲撃した('''生田万の乱''')。このほか各地で、一揆が続発した。
 
== 水野忠邦の政治 ==
[[ファイル:Mizuno Tadakuni.jpg|thumb|水野忠邦(みずの ただくに)]]
1841年に大御所 家斉が死ぬと、12代将軍家慶(いえよし)のもとで、同1841年に老中に<big>水野忠邦</big>(みずの ただくに)がつき、政治改革を行った(天保の改革)。
 
※ 天保の改革の経済政策的な内容については、中学で習ったとおり。
 
水野の政策では、財政を立て直すため倹約令(けんやくれい)を出した。農村から人が流出し、江戸に人が出てきたので、農村にかえすための<big>人返しの令</big>(ひとがえしのれい)を出した。事実上の、武士への借金帳消しをする棄捐令(きえんれい)も出した。
 
また、出版や芸能などを取り締まり、寄席の数も大幅に減らし、人情本作家の'''為永俊水'''(ためなが しゅんすい)らを処罰した。
 
物の値段が上がった原因を、水野は株仲間による独占が原因だろうと考え、株仲間(かぶなかま)を解散させたが、かえって商品の流通を混乱させた。
 
しかし、貨幣の質を落とした。
:(※ 現代の経済学では、一般に、貨幣の質を落とすと物価は上がる傾向があることが知られている。つまり、水野の政策は矛盾している。いったい、物価をあげたいのか、さげたいのか? 要するに、こいつ(水野)は馬鹿。)
 
このころ、アヘン戦争で清国がイギリスに負けると、幕府は(欧米との戦争をふせぐため)1842年に異国船打払令を撤回し、薪水給与令を復活させた。
 
また、日本の軍事力を強化するため、長崎から西洋砲術を学んだ高島秋帆(たかしも しゅうはん)を呼び寄せ、実射訓練をさせた。
 
1843年には、江戸・大阪の周辺を幕府の直轄地にしようと上地令(あげちれい)を出したが、諸大名や旗本(はたもと)などに反対され、実施できなかった。
 
 
{{コラム|水野忠邦は馬鹿|
※ 水野忠邦は、馬鹿である。どうせ儒学の暗記勉強ができるだけの、実務能力のない馬鹿である。
 
馬鹿の水野は、(現実を無視して)松平定信の寛政の改革を手本にした。
 
株仲間を解散させることで、商人は自由に取引をできるようになるが、しかし、風俗や出版などを取りしまったので、それらの業界では自由に営業できない。つくづく、水野のやってることは矛盾しており、こいつ馬鹿。
 
馬鹿の水野は、財政再建をしたいはずなのに、幕府の権威の復興のため、諸大名を動員して日光社参を何度も参拝するという費用のかかることをする。(つくづく、水野、馬鹿だろ。)
 
国防の強化をしたが、だったら大名をひきつれての日光参拝みたいな出費の掛かる行事を減らすべきだし、つくづく水野は馬鹿。
 
また、出版も統制されてるので、民間人から国防のための優秀な意見も出にくくなる。つくづく水野は馬鹿。
 
水野は馬鹿で役立たずなので、老中を解任させられた。
}}
 
天保の改革は失敗に終わり、たったの2年あまりで終わり、水野忠邦は失脚し、かえって幕府そのものの権威は低下した。
 
== 雄藩の躍進 ==
諸藩のなかには、経済改革や人材改革などを行い、改革に成功する藩も出てきた。
 
のちの明治維新では薩摩・長州・土佐・肥前(佐賀)の4つの'''雄藩'''(ゆうはん)が活躍するが、この4藩は、この1820〜30年代の藩政改革に成功している。
 
まず1827年に薩摩藩は、下級武士の出身の'''調所広郷'''(ずしょ ひろさと)を登用し、藩の借金を無利子返済にさせた。そして薩摩は、琉球を通じた清との密貿易や、奄美諸島(あまみしょとう)産の黒砂糖の専売などで、利益をあげた。
 
さつま藩主の'''島津斉彬'''(しまづ なりあきら)も開明的な政策をおこない、鹿児島に'''反射炉'''(はんしゃろ)を築き、さらに造船所をつくり、藩の工業技術を向上をさせた。
 
なお、水戸藩は、1829年に就任した藩主 '''徳川斉明'''(なりあき)が率先して改革をおこない、造船所を設置した。
 
佐賀藩も、藩主 '''鍋島直正'''(なべしま なおまさ)の積極的な改革により、反射炉を築き、さらに大砲を製造した。また佐賀藩は、陶磁器(有田焼、伊万里焼)の専売でも儲けた。
 
そのほか佐賀藩では、地主の土地の一部を小作人(土地をもってない農民)に与えさせ、本百姓(土地をもってて自分で耕す農民のこと)を増やした('''均田制''')。
 
土佐藩は、支出を切りつめるのに成功し、財政再建をした。
 
長州藩では、'''村田清風'''(むらた せいふう)が藩の借金を整理させ、紙・蝋(ろう)の専売を強化した。さらに、下関に寄港する廻船(かいせん)の積荷をあつかう'''腰荷方'''(こしにかた)で、倉庫業と金融業で利益をあげた。(※ 「倉庫業」という表現については、東京書籍の見解。他社の検定教科書によると、腰荷方のビジネスでは、資金の貸し付けや、委託販売などのビジネスを行ってたらしい。)
 
幕府も、やや送れるが、代官 '''江川太郎左衛門'''(えがわ たろうざえもん)に命じて、伊豆(いず)の韮山(にらやま)で反射炉を築いた。