「高等学校日本史B/元禄文化と学問の発展」の版間の差分

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'''契沖'''(けいちゅう)は万葉集を研究していた。徳川光圀は、契沖を援助した。契沖は、和歌を道徳的に解釈いようとする従来の手法を批判し(※ 山川出版や明成社の見解)、文献学的な方法で万葉集を研究して『万葉代匠記』(まんよう だいしょうき)を著した。
 
'''中江藤樹'''(なかえとうじゅ)は(儒学のひとつである)陽明学(ようめいがく)を学んだ。中江の門人の熊沢蕃山(くまざわ ばんざん)は、幕政を批判したため、幽閉された。
 
北村季吟(きたむら きぎん)は、綱吉の代に幕府の和学方(かがくかた)として登用され、将軍らに和歌を教えるかたわら、『源氏物語』や『枕草子』など古典の研究を行い、注釈書を著した。
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=== 儒学の発達 ===
朱子学からは、神道を儒教流に解釈する'''垂下神道'''(すいか しんとう)を唱える'''山崎闇斎'''(やまざき あんさい)が出た。
 
'''中江藤樹'''(なかえとうじゅ)は(儒学のひとつである)陽明学(ようめいがく)を学んだ。中江の門人の'''熊沢蕃山'''(くまざわ ばんざん)は、幕政を批判したため、幽閉された。
 
いっぽう、『論語』や『孟子』など古代中国の古典を、直接、原典にあたって研究しようという'''古学'''(こがく)が起きた
 
古学では、京都の町人出身の学者 '''伊藤仁斎'''(いとう じんさい)とその子 東涯(とうがい)父子は、京都の堀川(ほりかわ)に私塾 古義堂(こぎどう)を開き、古学にもとづく儒学の講義を行った。
 
江戸では、(伊藤仁斎よりも40歳ほど若い)'''荻生徂徠'''(おぎゅう そらい)が中国語の研究を通じて古学の研究を行った。
 
荻生徂徠は、柳沢吉保(やなぎさわ よしやす)・将軍吉宗(よしむね)の政治顧問として用いられ、幕政にも関わった。また、徂徠は江戸に私塾 蘐園塾(けんえんじゅく)を開いた。