「高等学校日本史B/元禄文化と学問の発展」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
坂田藤十郎
友禅染
130 行
 
いっぽう、上方(かみかた)では、色男の役である和事(わごと)の坂田藤十郎(さかた とうじゅうろう)や、女役である女形(おやま)の芳沢あやめ(よしざわ あやめ) が人気の俳優になった。
 
 
== 元禄ごろの美術・工芸 ==
絵画では、狩野派がひきつづき幕府の御用絵師として活躍したが、狩野派は様式の踏襲にとどまった。
 
いっぽう、上方(かみがた)を中心に、美術や工芸では新規の作風が育ってきた。
 
上方では、大和絵(やまとえ)の系譜(けいふ)である'''土佐派'''(とさは)の'''土佐光起'''(とさ みつおき)が朝廷の御用絵師になった。
 
そして、土佐派から分かれた'''住吉如慶'''(すみよし じょけい)と'''住吉具慶'''(〜ぐけい)の父子も、幕府の御用絵師となった('''住吉派''')。
 
:※ 幕府は、狩野派のほかにも、住吉派を御用絵師に加えたという事。けっして、狩野派を排除して住吉派を御用絵師にしたわけではない。(※ 参考文献はwikipedia日本語版の記事『狩野派』。)
 
江戸では、'''浮世絵'''(うきよえ)があらわれ、安房(あわ)出身の'''菱川師宣'''(ひしかわもろのぶ)などが作品を残した。菱川師宣の絵の制作方法は、はじめ肉筆だったが、やがて版画を始めた。版画だと、安価に絵を入手できることもあって、菱川の絵は人気になった。菱川師宣は、美人画などを残した。
 
陶器では、京都の'''野々村神仁清'''(ののむら にんさい)が色絵(いろえ)の技法を完成させて京焼(きょうやき)の祖(そ)となった。
 
また、屏風(びょうぶ)絵では、京都の'''尾形光琳'''(おがた こうりん)は俵屋宗達の影響をうけて、尾形光琳が『燕子花図屏風』(かきつばた ずびょうぶ)などの作品をつくった。
 
染物でも、京都の'''宮崎友禅'''(みやざき ゆうぜん)が、'''友禅染'''(ゆうぜんぞめ)を始めた。