「高等学校日本史B/律令国家への道」の版間の差分

中学校社会 歴史/飛鳥・奈良時代の農民の暮らし 2018年6月9日 (土) 20:24‎ から引用。
(* まめ知識 貴族の人数は、全国あわせて200人ほどだと考えられている。(※ 中学の東京書院の教科書で紹介の話題。))
(中学校社会 歴史/飛鳥・奈良時代の農民の暮らし 2018年6月9日 (土) 20:24‎ から引用。)
大宝律令のころに、班田収授や租庸調(そようちょう)も定められた。
 
人々の身分は良(りょう)と賤(せん)に分かれていました。「賤」は奴隷などのことで、いわゆる「奴婢」(ぬひ)です。男の奴隷が奴(ぬ)で、女の奴隷が婢(ひ)です。奴婢は、売買もされたという。
* <span style="color:red"><big>班田収授</big></span>(はんでんしゅうじゅ)
「良」の人々の多くは、いわゆる農民などのことです。奴婢は全人口の1割ほどで、奴婢以外との結婚を禁じられるなどの差別を受けていました。
人民の<big>戸籍</big>(こせき)を作り、人民に耕作をさせるための<span style="color:red"><big>口分田</big></span>(くぶんでん)という田を与え耕作させます。
 
政府は人民を管理するために<big>戸籍</big>(こせき)を作り、人民に耕作をさせるための<span style="color:red"><big>口分田</big></span>(くぶんでん)という田を与え耕作させます。
 
この当時の戸籍とは、人民をひとりずつ、公文書に登録することで、住所や家族の名や年齢、家の世帯主、などを把握することです。
 
この飛鳥奈良時代に、すでに「戸籍」という言葉がありました。
 
このような情報の管理は、税をとることが目的です。税の台帳である<big>計帳</big>(けいちょう)をつくるため、戸籍が必要なのです。
死んだ人の分の田は、国に返します。
 
これらの制度を<span style="color:red"><big>班田収授法</big></span>(はんでんしゅうじゅほう)と言い、唐の均田制(きんでんせい)に習った制度である。
 
 
* <big>租</big>(そ)・<big>庸</big>(よう)・<big>調</big>(ちょう)
{| class="wikitable" style="float:right"
|+ 一般の人々の負担
! colspan="2" | <span style="font-size: large;">種類</span> ||<span style="font-size: large;">内容</span>
|-
| rowspan="4" |<SPAN STYLE="FONT-WEIGHT:NORMAL;"><span style="font-size: large;"> 税 </span></SPAN>
|<SPAN STYLE="FONT-WEIGHT:NORMAL;"><span style="font-size: large;">租</span></SPAN>
|収穫の約3%の稲
|-
|<SPAN STYLE="FONT-WEIGHT:NORMAL;"><span style="font-size: large;">調</span></SPAN>
|地方の特産物(糸、絹、真綿、塩、<br />魚、海藻、鉄、・・・)などを納める。
|-
|<SPAN STYLE="FONT-WEIGHT:NORMAL;"><span style="font-size: large;">庸</span></SPAN>
|麻の布を納める。(労役の代わり。)
|-
|<SPAN STYLE="FONT-WEIGHT:NORMAL;"><span style="font-size: large;">出挙</span></SPAN>
|強制的に稲を農民に貸し付け。<br />5割の利息を農民が払う。
|-
| rowspan="2" |<SPAN STYLE="FONT-WEIGHT:NORMAL;"><span style="font-size: large;"><br /> 労 <br /> 役 </span></SPAN>
|<SPAN STYLE="FONT-WEIGHT:NORMAL;"><span style="font-size: large;">雑徭</span></SPAN>
|土木工事など。年間60日以内。
|-
|<SPAN STYLE="FONT-WEIGHT:NORMAL;"><span style="font-size: large;">運脚</span></SPAN>
|税(租庸調)などを都へ運ぶ。
|-
| rowspan="2" |<SPAN STYLE="FONT-WEIGHT:NORMAL;"><span style="font-size: large;"><br /> 兵 <br /> 役 </span></SPAN>
|<SPAN STYLE="FONT-WEIGHT:NORMAL;"><span style="font-size: large;">衛士</span></SPAN>
|都で兵士を1年。
|-
|<SPAN STYLE="FONT-WEIGHT:NORMAL;"><span style="font-size: large;">防人</span></SPAN>
|九州北部で兵士を3年。
|-
|}
税(ぜい)の種類です。
 
 
前提として、公地公民(こうちこうみん)や班田収授(はんでんしゅうじゅ)などが必要です。
 
これとは別に、出挙(すいこ)という、国司が強制的に農民に春に稲を貸し付けて、秋に5割の利息を農民から取る制度があり、税のように考えられていました。
 
この他、一般の人々の負担には兵役(へいえき)や労役(ろうえき)などがあり、兵役では<big>防人</big>(さきもり)として3年間ほど九州に送られたり、<big>衛士</big>(えじ)として都の警備を1年間 させられました。
 
労役では、<big>雑徭</big>(ぞうよう)として土木工事などの労働を60日以内(1年あたり)させられたり、<big>運脚</big>(うんきゃく)として庸・調を都まで運ばされました。
 
 
農民の負担が重い一方で、貴族は税などを免除されました。
 
 
* 国・郡・里
<div style="font-size:120%;">
<pre>
      国 (国司)
      ┃
      郡 (郡司)
      ┃
      里 (里長)
 
</pre>
</div>
政府の組織や、地方行政の組織にも、改革が加わります。
まず、日本全国をいくつかの 国(くに) に分けて管理し、国は郡(こおり)に分けられ、郡は里(さと)に分けられます。
 
国には、中央の朝廷から、<span style="color:red"><big>国司</big></span>(こくし)という役人が派遣され、この国司によって、それぞれの国が管理されます。
 
郡を管理する役職は、<span style="color:red"><big>郡司</big></span>(ぐんじ)という役職の役人に管理させます。たいてい、その地方の豪族が郡司です。
 
 
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* 税について。<span style="color:red"><big>収授永年私財法</big></span>(んでん えいねん ざい の ほじゅ
この時代に農民は貧しくて、税の負担は重く生活が苦しく、多くの農民は竪穴住居に住んでいた。<span style="color:red"><big>山上憶良</big></span>(やまのうえの おくら)のよんだ<span style="color:red"><big>貧窮問答歌</big></span>(ひんきゅう もんどうか)には、このころの農民の苦しい生活のさまが歌われている。
 
    *
:貧窮問答歌(要約)
::人並みに田畑の仕事で働いているのに、服はボロボロなのを着ていて、家はつぶれて曲がっているようで、地面にはワラを直接に敷いている。父母は私のマクラのほうで嘆き悲しみ、妻子は私の足のほうで嘆き悲しんでいる。かまどには煙も立てられず、こしき(米の蒸し器)にはクモが巣を張り、飯をたくことも忘れてしまったというのに、それでもムチを持った里長(さとおさ)が税を取り立てようとする声が、寝屋まで聞こえる。こんなにも、つらい事なのか、世の中に生きることは。
 
::世の中を 憂しとやさしと 思えども 飛び立ちかねつ とりにしあらねば
::(世の中を、つらくて身もやせるほどだと思っても、鳥では無いから、飛び立つこともできない。)
 
 
また、人口が増えたので口分田は不足した。国の仕組みが整うにつれて、税の仕組みも整い、税の負担は重く、口分田を捨てて逃げ出す農民が増えた。なお、この時代に鉄製の農具が普及してきて、農業の生産力が上がった。
 
朝廷は税を増やすため、田を増やす必要があり、そのため、法律を変え、開墾した3代にわたり、田を所有できるように法を制定した。これが <big>三世一身の法</big>(さんぜい いっしん の ほう) であり723年の出来事である。
 
さらに743年(天平15年)には、期限が無く所有し続けられる <span style="color:red"><big>墾田永年私財法</big></span>(こんでん えいねん しざい の ほう) が制定された。
 
これは、つまり公地公民の原則を廃止したことになる。
 
また、貴族や豪族は、これを利用し、私有地を広げた。この貴族の私有地は、のちに <big>荘園</big>(しょうえん) と呼ばれることになる。
 
 
*貨幣(かへい)、和同開珎(わどうかいちん、わどうかいほう)
[[File:Wadokaichin coin 8th century Japan.jpg|thumb|left|200px|和同開珎]]
経済では、この奈良時代の都では、<span style="color:red"><big>和同開珎</big></span>(わどうかいちん、わどうかいほう)という貨幣が708年(和同元年)に発行され、流通していました。
これより古い貨幣には、7世紀後半の天武天皇の頃に富本銭(ふほんせん)という貨幣がつくられています。
 
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