「高等学校日本史B/奈良時代」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
百万町歩の開墾計画
39 行
道教は法王の地位まで登りつめたが、孝謙天皇の死後は道鏡は勢力を失い、道教は下野(しもつけ)の薬師寺(やくしじ)に追放された。
 
そして、次の天皇には、天智天皇の孫である光仁天皇(こうにん てんのう)がたてられた。(なお、光仁までの天皇は、天武天皇の系統だった。)
== 経済など ==
 
 
== 経済など ==
人口が増えたので口分田は不足した。国の仕組みが整うにつれて、税の仕組みも整い、税の負担は重く、口分田を捨てて逃げ出す農民が増えた。なお、この時代に鉄製の農具が普及してきて、農業の生産力が上がった。
 
722年、政府は「百万町歩の開墾計画」 (ひゃくまんちょうぶ の かいこんけいかく)を出した。(しかし、実際に百万町歩が開墾されたのではないようだ。現代では、単なるスローガンにすぎないと思われている。)
 
朝廷は税を増やすため、田を増やす必要があり、そのため、法律を変え、開墾した3代にわたり、田を所有できるように法を制定した。これが <big>三世一身の法</big>(さんぜい いっしん の ほう) であり723年の出来事である。