「高等学校日本史B/平安遷都と政治改革」の版間の差分

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嵯峨天皇
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:※ 『[[高等学校国語総合/土佐日記#門出(かどで)]]』に出てくる「解由」(げゆ)とは、このカゲユシ関連の書類である。著者の紀貫之(きの つらゆき)は、国司として、取り締まりされる側の立場。くわしくはリンク先で。
 
勘解由使に、国司の交代の際には、前任の国司に不正がなかったことを証明するための解由状(げゆじょう)を審査させた。
 
== その他 ==
:※ 中学校で習ったとおり。『[[中学校社会 歴史/平安時代]]』参照せよ。
 
 
桓武天皇の政策として、辺境の他では徴兵をやめ、辺境の他では従来の軍団を廃止して、あらたに郡司の子弟で弓馬にたくみな者からなる健児(こんでい)を設けた。
 
また、このころ、都の造営と、蝦夷との戦いからなる二大事業が、国家財政や民衆の負担だった。
 
貴族間で、この事業の存続をめぐる論争が起き、桓武天皇はこの二大事業を中止した。
 
桓武天皇は、二大事業の存続の件で、管野真道(すがのまみち)と藤原緒嗣(ふじわらおつぐ)という2人の参議に論争させた(徳政論争)。(菅野が存続派。藤原が打ち切り派。)
 
 
桓武天皇の死後、平城天皇(へいぜいてんのう)、つづいて809年に'''嵯峨天皇'''(さがてんのう)になった。
 
:※ 社会の変化により、従来の家柄や血筋による人事制度がうまく機能しなくなったため、嵯峨天皇らは、従来の官職を残しつつも、新たに、家柄にとらわれない新設の官職も設置して活用した。
 
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嵯峨天皇(さがてんのう)のとき、'''薬子の変'''(くすこのへん)が起きた。しかし、薬子の変は失敗に終わった。
 
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薬子の変とは、810年に藤原薬子とその兄 仲成(なかなり)が、平城太上天皇(平城上皇)をふたたび天皇の地位につけようとして失敗した事件。「'''平城太上天皇の変'''」ともいう。
 
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嵯峨天皇は、あらかじめ蔵人所(くらうどのところ)を設置し、機密をあつかった。
蔵人所の長官を'''蔵人頭'''(くらうどのかみ)という。
'''蔵人頭'''(くらうどのかみ)には、藤原冬嗣(ふじわら ふゆつぐ)らが任命された。
 
 
また、京都の治安維持・警察をつかさどるために'''検非違使'''(けびいし)を置いた。
 
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これら新設の官職は令(りょう)には規定がないので、'''令外官'''(りょうのげかん)と呼ばれた。
 
検非違使も、令の規定によらずに犯罪人の取り締まりができた。(※ 東京書籍の見解)
 
また、これら令外官では、家柄にとらわれずに有能な人材を登用できた。(※ 東京書籍の見解)
 
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:※ (東京書籍や明成社が言うには、)令外官はべつに嵯峨天皇が始めたのでなくって、702年の「参議」や、705年の「中納言」も、令外官である。ただ、令外官が重要な要職になったのが、嵯峨天皇の頃からである。
 
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また、嵯峨天皇は、律令を補足した'''格'''(きゃく)と、官庁で施行する際の細則である'''式'''(しき)とを整備した。
 
嵯峨天皇のもとで、820年ごろ、'''光仁格式'''(こうにん〜)が出来た。
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のちの天皇のもとで、「貞観格式」(じょうがん〜)・「延喜格式」(えんぎ〜)が出きた。これら3つ(光仁格式、貞観格式、延喜格式)をあわせて三代格式という。
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(823年に嵯峨天皇は、つぎの天皇に皇位をゆずって退位する。)
 
(833年には、)令(りょう)の条文の解釈を統一するための注釈書として『'''令義解'''』(りょうのぎげ)がつくられた。
 
(842年、嵯峨 元天皇が死没。)