「高等学校日本史B/平安遷都と政治改革」の版間の差分

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室生寺
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勘解由使に、国司の交代の際には、前任の国司に不正がなかったことを証明するための解由状(げゆじょう)を審査させた。
 
 
== その他 ==
:※ 中学校で習った『[[中学校社会 歴史/平安時代]]』も参照せよ。
 
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== 平安初期の密教文化 ==
[[Image:NYOIRIN KANSHINJI.JPG|thumb|200px|right|歓心寺 如意輪(にょいりん)観音像 (大阪・観心寺)]]
唐で仏教を学んだ'''最澄'''(さいちょう)と'''空海'''(くうかい)が日本に帰国して、仏教の知識も日本に持ち帰る。
 
空海は、唐では、インドから中国に伝えられたばかりの真言密教(しんごん みっきょう)を学んでいた。
 
空海が日本で'''密教'''(みっきょう)を広めた。(いっぽう、最澄が広めたのは法華経。)
 
空海は、高野山(こうやさん)に金剛峰寺(こんごう ぶじ)を建て、密教にもとづく'''真言宗'''(しんごんしゅう)をつくった。
 
また、最澄は比叡山(ひえいざい)に'''延暦寺'''(えんりゃくじ)をひらき、天台宗(てんだいしゅう)をつくった。
 
天台宗・真言宗の寺院の多くは、山中に建てられた。
:(空海の宗派の寺だけが山中にあるのではなく、最澄の宗派の寺も山中に建てられたことに、注意。)
 
天台宗も、しだいに密教の影響を受け、最澄の弟子の円仁(えんにん)・円珍(えんちん)が唐に留学して密教の知識を日本に持ち帰り、天台宗は密教化した。
 
 
また、従来の宗派でも山岳修行をしていたが、これらが天台・真言宗とむすびつき、'''修験道'''(しゅげんどう)が流行した。
 
 
いっぽう、奈良時代の後半から既に、日本古来の神々と仏教とをむすびつける'''神仏習合'''(しんぶつ しゅうごう)の考えがあった。
 
このため、神社の境内(けいだい)に神宮寺(じんぐうじ)を建てたり、神前(しんぜん)で読経(どきょう)する風習などがあったが、密教の普及とともに、これらの風習も普及した。
 
 
[[File:Murou-ji 4.jpg|thumb|室生寺(むろうじ)]]
大和の室生寺(むろうじ)では、伽藍(がらん)も地形に応じて自由に配置された。
 
:※ 伽藍とは、寺院の建物全体や、その構成のこと。
 
* 美術など
絵画では、密教の世界観をあらわす曼荼羅(まんだら)が描かれた。