「高等学校日本史B/藤原氏の台頭」の版間の差分

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荘官
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:※ 小中学校では、のちの源平合戦とのつながりから、藤原道長よりも後に将門を紹介する。しかし、実際の歴史的順序は、けっして藤原氏が衰えてから将門の反乱が起きたのではない。
:939年の西国での藤原純友の乱(ふじわらのすみとも の らん)も、道長の生まれる前の出来事である。
 
== 地方政治 ==
国司が任国に代理人である目代を行かせて、国司本人は京に在任する制度も認められた。また、代理人として'''目代'''(もくだい)を任国に行かせて、国司本人は在京する場合、このような国司のことを'''遥任'''(ようにん)という。または、そのような行為(代理人を任国に行かせて自分は在京する行為)のことも遥任(ようにん)という。
 
いっぽう、代理人をつかわずに国司本人が任国に行く場合、このような国司は'''受領'''(ずりょう)と呼ばれた。
 
 
また、(なんらかの理由で、)戸籍や計帳による農民把握が難しくなり、班田が行われなくなり、課税の対象が人から土地へと変わった。
 
そして、有力な農民に耕作を請け負わせた。また、耕作を請け負った有力農民のことを'''田堵'''(たと)という。
 
また田の管理区分では、田に、この請負人(田堵)の名前をつけて区分して管理したため、その田は「'''名田'''」あるいは「'''名'''」と呼ばれる
 
== 荘園 ==
10世紀後半ごろから、熱心に開墾をする領主があらわれ、11世紀には彼らは'''開発領主'''と呼ばれた。
 
開発領主のなかには、国司による税の負担をのがれるため、中央の貴族に土地を寄進するものが現れた。このように寄進された土地は'''荘園'''(しょうえん)と呼ばれた。(のちの『百錬抄』(ひゃくれんしょう)や『愚管抄』(ぐかんしょう)などで「荘園」という用語がある。)
 
寄進をうけた貴族は'''領家'''(りょうけ)とよばれた。寄進を受けた貴族が、さらに上級の貴族に寄進する場合もあり、その上級貴族は'''本家'''(ほんけ)と呼ばれた。
 
いっぽう、寄進をした側の現地の管理者は、'''荘官'''(しょうかん)とよばれた。
 
荘園は、しだいに、租税をまぬがれる'''不輸の権'''(ふゆのけん)を獲得した。
また、国司の派遣する検田使(けんでんし)などの役人の立ち入りをさせない'''不入の権'''も獲得した。