「高等学校日本史B/院政とその展開」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
記録荘園券契所
 
知行国
6 行
 
つづいて、後三条の子の'''白河天皇'''(しらかわ てんのう)が即位したが、1086年に退位して幼少の堀河天皇(ほりかわ てんのう)に皇位をゆずり、白河みずからは'''上皇'''となった。
 
 
そして、上皇みずから、政治を行った。
 
このような、上皇による政治のことを'''院政'''という。
 
院とは、もともとは上皇の住まいのことだったが、しだいに上皇じしんを指し示すようになった。
 
白河上皇、鳥羽(とば)上皇、後白河(ごしらかわ)上皇が、院政を行い、100年ほど院政が続く。
 
 
白河上皇は、院の御所に警備のため'''北面の武士'''を設けた。
 
 
歴代の上皇の院政の仕組みでは、上皇は'''院庁'''(いんのちょう)を設けた。国政は、上皇が太政官(だじょうかん)に指示して、実行された。
 
院政では、上皇の意志を伝える文書である'''院宣'''(いんぜん)や、院庁から下される文書である'''院庁下文'''(いんちょうの くだしぶみ)が権力をもった。
 
 
貴族が部下の国司を「目代」(もくだい)として現地に派遣して貴族本人は京都にいるままの「遥任」(ようにん)の名前が「'''知行国'''」(ちぎょうこく)に変わった。
 
つまり、「遥任」が「知行国」に呼び名が変わった。
 
:※ 呼び名を変えるだけで仕事をしたつもりになるなんて、朝廷はラクな仕事をしているねえ。いつの時代にも、こういう、仕事としての実態の無い、しょうもない仕事があるようだ。
 
 
荘園の制度は、この時代もひきつづき、存続した。ますます、荘園の独立性は高まっていき、中央政府は貴族や寺社の荘園からは租税などを取りづらくなった。