「高等学校日本史B/平安時代の地方政治」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
『高等学校日本史B/藤原家の台頭』 2018年6月11日 (月) 06:36‎ より、地方政治に関連する単元をこちらに移動。
 
平将門の乱
1 行
== 経済 ==
 
=== 地方政治 ===
国司が任国に代理人である目代を行かせて、国司本人は京に在任する制度も認められた。また、代理人として'''目代'''(もくだい)を任国に行かせて、国司本人は在京する場合、このような国司のことを'''遥任'''(ようにん)という。または、そのような行為(代理人を任国に行かせて自分は在京する行為)のことも遥任(ようにん)という。
 
12 行
また田の管理区分では、田に、この請負人(田堵)の名前をつけて区分して管理したため、その田は「'''名田'''」あるいは「'''名'''」と呼ばれる
 
=== 荘園 ===
10世紀後半ごろから、熱心に開墾をする領主があらわれ、11世紀には彼らは'''開発領主'''と呼ばれた。
 
23 行
荘園は、しだいに、租税をまぬがれる'''不輸の権'''(ふゆのけん)を獲得した。
また、国司の派遣する検田使(けんでんし)などの役人の立ち入りをさせない'''不入の権'''も獲得した。
 
== 武士 ==
9世紀から10世紀ごろ、地方でたびたび反乱が起き、鎮圧のため「押領使」(おうりょうし)や「追捕使」(ついぶし)と呼ばれた軍隊が地方に送られた。軍隊の現場管理者たちのなかには、鎮圧後も京都にかえらず、地方に土着する者もあらわれていった。
 
このような武装集団たちが武士となっていった。
 
10世紀の前半、関東の有力武士の'''平将門'''(たいらの まさかど)は、下総(しもうさ)を根拠地として、一族と争っているうちに、国司とも対立し、将門は939年に常陸(ひたち)の国府を襲い、将門は反乱を起こした('''平将門の乱''')。さらに下野(しもつけ)・上野(こうづけ)の国府も襲った。そして、将門みずからを新皇(しんのう)と自称した。しかし940年、平貞盛(たいらのさだもり)と藤原秀郷(ふじわらひでさと)によって、平将門の反乱は鎮圧され、将門は討たれた。
 
 
同じころ、元・伊予(いよ)の国司であった'''藤原純友'''(ふじわら すみとも)が939年、瀬戸内海の一帯の地域で反乱を起こし、941年には太宰府を攻め落とした('''藤原純友の乱''')。しかし、同949年、小野好古・源経基らによって討たれた。