「高等学校日本史B/平安時代の地方政治」の版間の差分

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平将門の乱
奥州藤原氏
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== 武士 ==
=== 地方の反乱 ===
9世紀から10世紀ごろ、地方でたびたび反乱が起き、鎮圧のため「押領使」(おうりょうし)や「追捕使」(ついぶし)と呼ばれた軍隊が地方に送られた。軍隊の現場管理者たちのなかには、鎮圧後も京都にかえらず、地方に土着する者もあらわれていった。
 
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同じころ、元・伊予(いよ)の国司であった'''藤原純友'''(ふじわら すみとも)が939年、瀬戸内海の一帯の地域で反乱を起こし、941年には太宰府を攻め落とした('''藤原純友の乱''')。しかし、同949年、小野好古・源経基らによって討たれた。
 
=== 源氏 ===
1028年には関東の房総半島で'''平忠常'''(たいらのただつね)が反乱したが、源頼信(みなもとの よりのぶ)が鎮圧した。
 
これ鎮圧の以降、関東で源氏の影響力が高まる。
 
1051年、陸奥で豪族の安倍氏が乱を起こす。頼信の子の頼義(よりよし)とその子(つまり頼信の孫)の義家(よしいえ)が、現地に下り、東国の武士をひきいて戦い、豪族の清原(きよはら)氏の援けを得て、安倍の反乱を鎮圧した。('''前九年合戦'''(ぜんくねん がっせん) )
 
その後、安倍氏にかわって奥羽で権力を得た清原(きよはら)氏に内紛が起き、義家はこれに介入し、1083年に藤原清衡(〜きよひら)をたすけて、反対派を鎮圧した。('''後三年合戦'''(ごさんねん がっせん) )
 
こののち奥羽では、清衡および その子の基衡(もとひら)と孫の秀衡(ひでひら)による'''奥州藤原氏'''が、陸奥(むつ)の平泉(ひらいずみ)を拠点にして支配し、約100年にわたって繁栄した。
 
また、これらの合戦の成果により、源氏の東国支配は確固たるものになった。