「高等学校日本史B/保元・平治の乱」の版間の差分

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平治の乱
 
鹿ケ谷の陰謀
41 行
|  平清盛<br> 平重盛  ||  源義朝(→斬首) <br> 源義平(→斬首)<br> 源頼朝(→伊豆)
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平清盛の留守中の1159年に、藤原信頼(〜のぶより)は源義朝とむすんで挙兵し、清盛と親しい藤原通憲(みちのり)を殺害した。しかし、その後、清盛によって信頼・義朝らは鎮圧され、信頼・義朝は殺害された。そして、義朝の子の頼朝は伊豆に流された('''平治の乱'''(へいじ の らん) )。
 
平治の乱後、後白河上皇は平清盛を重用し、清盛は太政大臣にまで上りつめた。その子や一族も、高位高官が与えられた。
 
清盛は娘の徳子(とくこ)を、高倉天皇の中宮に入れ、安徳天皇の外祖父となった。なお、徳子のことの「建礼門院」ともいう。
 
 
1177年、後白河の近臣である藤原成親(なりちか)や僧の俊寛(しゅんかん)が、平氏打倒の計画をするが失敗した('''鹿ケ谷の陰謀''' (ししがたに の いんぼう) )。
 
そして1179年、清盛は後白河を幽閉した。
 
こうして、平氏は独裁的な強権を手に入れた。(しかし最終的には、反平氏の勢力を結集させることになる。)