「高等学校日本史B/保元・平治の乱」の版間の差分

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鹿ケ谷の陰謀
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院政のころ、鳥羽上皇・後白河天皇と崇徳上皇(すとく〜)とが対立した。
 
また、摂関家では、関白 藤原忠道(〜ただみち)と左大臣 藤原頼長(〜よりなが) が、対立していた。
 
崇徳は頼長と手を組んだ。
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平清盛の留守中の1159年に、藤原信頼(〜のぶより)は源義朝とむすんで挙兵し、清盛と親しい藤原通憲(みちのり)を殺害した。しかし、その後、清盛によって信頼・義朝らは鎮圧され、信頼・義朝は殺害された。そして、義朝の子の頼朝は伊豆に流された('''平治の乱'''(へいじ の らん) )。
 
平治の乱後、後白河上皇は平清盛を重用し、清盛は太政大臣にまで上りつめた。その子や一族も、高位高官が与えられた。
 
清盛は娘の徳子(とくこ)を、高倉天皇(たかくら)の中宮(ちゅうぐう)に入れ、清盛は安徳天皇(あんとく)の外祖父となった。(つまり、平氏が天皇の外戚になった。)なお、徳子のことの「建礼門院」ともいう。
 
 
1177年、後白河の近臣である藤原成親(なりちか)や僧の俊寛(しゅんかん)が、平氏打倒の計画をするが失敗した('''鹿ケ谷の陰謀''' (ししがたに の いんぼう) )。