「高等学校日本史B/織田信長・豊臣秀吉」の版間の差分

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本能寺の変による信長の死後は、権力をにぎった秀吉が、関所の廃止や楽市楽座の政策を行った。
織田信長の統一事業
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== 織田信長の統一事業 ==
;楽市楽座について
尾張の大名の'''織田信長'''(おだ のぶなが)は、1560年に尾張の'''桶狭間(おけはざま)の戦い'''で駿河(するが)の今川義元(いまがわ よしもと)をやぶった。
 
そして信長は、今川の人質であった徳川家康(とくがわ いえやす)と同盟を結んだ。
 
信長は、1567年、美濃の大名・斎藤氏をほろぼし、居城を、尾張の清洲城(きよすじょう)から美濃の稲葉山城(いなばやまじょう)に移し、稲葉山城を岐阜城(ぎふじょう)と改称した。
 
 
1568年、信長は、室町幕府の13代将軍 故・足利義輝(よしてる)の弟の'''足利義昭'''(よしあき)を奉じて信長は京都に入った。そして信長は、足利義昭を15代将軍につかせた。
 
しかし足利義昭は、しだいに信長と対立した。そして義昭は、越前(えちぜん)の朝倉義景(あさくら よしかげ)、近江の浅井長政(あさい ながまさ)、信濃(しなの)の武田信玄(たけだ しんげん)、などの有力な大名や、本願寺(ほんがんじ)と結び、信長に対抗した。
 
 
これに対し信長は、1570年、'''姉川(あねがわ)の戦い'''で、浅井・朝倉の連合軍を破った。
 
翌年には信長は、比叡山(ひえいざん)延暦寺(えんりゃくじ)を焼き討ちした。
 
そして1573年、信長は、足利義昭を京都から追放して、室町幕府は滅んだ。
 
そして1575年、長篠の戦いで、織田・徳川の連合軍は大量の鉄砲を活用し、騎馬隊を中心とした武田軍に圧勝した。このとき、武田信玄は既に死亡しており、'''武田勝頼'''(たけだ かつより)が武田の大名である。
 
 
このころ、信長の領地は、一向一揆に悩まされていた。
 
1574年、織田は、伊勢長島の一向一揆を滅ぼした。
 
翌年には、越前の一向一揆を滅ぼした。
 
そして1580年、ついに、大坂の'''石山本願寺'''を屈服させた。
 
 
1582年には、信長は、天目山(てんもくざん)の戦いで武田氏を滅ぼした。
 
信長は、つづいて毛利氏を倒そうと、京都の本能寺に泊まっている途中、家臣の'''明智光秀'''(あけち みつひで)に裏切られ、信長は自害した('''本能寺の変''')。
 
こうして信長は、日本統一をせずに死亡した。
 
;== 楽市楽座について ==
最初に楽市を始めた人物は、じつは信長ではない可能性がある。(信長以前にも「楽市」という用語があったが、当時はその語句は注目されておらず、信長以前の「楽市」政策の実態がまだ解明されてない。)
 
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本能寺の変による信長の死後は、権力をにぎった秀吉が、関所の廃止や楽市楽座の政策を行った。
 
== 秀吉の天下日本統一 ==
 
1582年、本能寺の変が起きて信長が死んだ。