「高等学校日本史B/織田信長・豊臣秀吉」の版間の差分

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織田信長の統一事業
海賊停止令
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1585年、秀吉は朝廷から関白に命じられ、翌1586年には秀吉は太政大臣(だいじょう だいじん)に任命され'''豊臣'''(とよとみ)の姓をたまわる。
 
1588年には秀吉は、京都に新築した聚楽艇(じゅらくてい)に後陽成天皇(ごようぜい てんのう)を招いた。
 
 
いっぽう戦史では1585年、秀吉は、四国の長宗我部元親をたおし、四国を平定する。(なお中国地方の毛利は、すでに1583年から秀吉に従っている。)
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同1590年、伊達政宗(だて まさむね)など東北の諸大名も降伏し、秀吉は日本統一をした。
 
 
== 秀吉の政策 ==
秀吉の政治は、専制だった。
 
秀吉は、'''五大老'''(ごたいろう)と'''五奉行'''を設置した。
 
重要な政務は、(形式的には)五大老の合議とした。
 
五大老に任命されたのは、徳川家康(とくがわ いえやす)・前田利家(まえだ としいえ)・毛利輝元(もうり てるもと)・宇喜多秀家(うきた ひでいえ)・上杉景勝(うえすぎ かげかつ)の5人の大名である。
 
また、五奉行は 、財政や司法などの政務を行った。五奉行は浅野長政(あさの ながまさ)・石田三成(いしだみつなり)などの5人である。
 
 
1587年には秀吉は、バテレン追放令を出した。この追放令では、宣教師の追放のほか、大名がキリスト教徒になることも禁止した。また、大名が信者を強制的にキリスト教徒にすることや、寺社を破壊することも禁止した。
 
この追放令では、当初は民衆が個人的にキリスト教徒になるのは、自由とされた。
 
翌1588年、秀吉は、長崎のキリシタン大名の大村純忠(おおむら すみただ)の寄進によって一部がイエズス教会領になっていた長崎を没収し、秀吉の直轄領にした。
 
秀吉は、直轄地として、重要都市の京都・大坂・伏見(ふしみ)・堺(さかい)・博多(はかた)・長崎などを直接支配した。
 
秀吉は、1588年には'''海賊停止令'''を出し、倭寇(わこう)などの海賊を取り締まった。