「高等学校日本史B/室町幕府の展開」の版間の差分

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中学校社会 歴史/室町時代』2018年6月12日 (火) 20:18‎ から、義持や義教について、こちらに移動。
 
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3代将軍 義満の子の足利義持(よしもち)は義満から将軍職を任命された。4代将軍 足利義持は、父 義満の没後に、朝貢という形式を嫌い明と断交した。(しかし、のちに6代将軍 義教(よしのり)の代に貿易および国交を再会した。義教は、幕府の財政安定のためと、自身の権威確立(明から日本の将軍は「日本国王」とみなされた)のため、貿易を再会した。)
足利義満が亡くなると、4代将軍になった足利義持(あしかが よしもち)は斯波義将に補佐され、義満に対する太上天皇(だいじょうてんのう、だじょうてんのう)の追号を辞退し、勘合貿易(かんごうぼうえき)での明朝との通商を一時停止するなど、義満の政策を否定して幕政の守旧的なものを改革する。1423年に実子の足利義量(あしかが よしかず)に将軍職を譲るが義量が早世し、さらに義持自身も後継者を決めないまま死去する。6代将軍は籤引きで選ばれる事とされ、義満の子で僧門に入っていた義円(ぎえん)が還俗して将軍・足利義教(あしかが よしのり)が誕生する。義教は有力守護大名の討伐・弱体化に奔走しつつ、長年対立してきた鎌倉公方(かまくらくぼう)足利持氏(あしかが もちうじ)を滅ぼすなど幕府権力の強化・建て直しに尽力したが、嘉吉の変(かきつのへん)において赤松氏(あかまつし)により横死した。義教の死後、将軍の権力は失墜し、強力な指導力と実行力を兼ね備えた足利将軍は登場することはなかった。
 
6代将軍はクジ引きで選ばれ、足利義教(あしかが よしのり)が6代将軍になった。義教は、将軍権力の強化をねらって、1438年に関東に大軍を派遣して、長年対立してきた鎌倉公方(かまくらくぼう)足利持氏(あしかが もちうじ)を滅ぼした(永享の乱)。
 
しかし、1141年に播磨(はりま)守護の赤松満祐(あかまつ みつすけ)によって義教は謀殺された( 嘉吉の変(かきつのへん))。まもなく、赤松氏は、幕府軍によって討伐された。
 
義教の死後、将軍の権力は失墜し、以降の足利将軍は、強力な指導力を持てなかった。