「日本史/古代/飛鳥時代」の版間の差分

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'''飛鳥時代'''は、都が奈良の'''飛鳥地方'''にあった(いわゆる'''飛鳥京''')時代。6世紀後半~7世紀ほどを指すが、ここでは593年から710年を解説する
 
== 政権の動乱 ==
== 飛鳥朝廷 ==
=== 東アジアの情勢と倭国 ===
6世紀、朝鮮半島では'''高句麗'''が勢力を南に広げたため、'''百済'''、'''新羅'''は'''伽耶諸国(加羅諸国)'''を併合した。それまで伽耶諸国と外交関係を展開した倭国は、この併合政策によって伽耶諸国への影響力を失い、国内では朝鮮半島政策を巡って百済の伽耶地域支配権確立が失政とされ、大連'''大伴氏'''が失脚した。これに代わって、大臣'''蘇我氏'''と大連の'''物部氏'''の二大勢力が政権で台頭するようになった。蘇我氏は三蔵(みつのくら)管理、屯倉経営に関与してヤマト政権の財政権を掌握して権勢をふるった。
=== 物部氏討伐 ===
蘇我氏と物部氏は仏教受容を巡って対立した。用明天皇が崩御すると二大勢力は武力衝突を起こしたが、崇仏派の大臣'''蘇我馬子'''は587年に前大王の皇子'''厩戸王'''や泊瀬部皇子らを奉じて排仏派の大連'''物部守屋'''らを滅ぼし、蘇我の血を引く泊瀬部皇子を大王に即位させた(崇峻天皇)。ここに蘇我氏のヤマト政権における勢力は確固たるものとなったのである。しかし大王は蘇我の権力拡大に不満を募らせ次第に馬子と対立し、592年、馬子は大王を殺害して自らの姪で敏達天皇の大后であった額田部皇女を大王に即けた('''推古天皇''')。
== 飛鳥の朝廷 ==
=== 厩戸王と馬子の政治 ===
当時朝鮮六世紀後島は東アジアは大帝国''''''の勢力拡大に苦しむ時代となっていた。このような国際的緊張の中で倭国は、「ヤマト政権」という古墳時代から続く枠組みから脱却して「国家組織」を作り上げる必要に迫られていた。厩戸王と592年、'''大臣蘇我馬子'''の援助を受けて即位した'''崇峻天皇'''が、対立した馬子の指示で殺害される事件が起こった。空位となった大王位に、馬子は協力自らの姪にして敏達天皇の后(おおきさき)であった額田部女(ぬかたべのひめみこ)を推した('''推古天皇を助け''')。推古天皇は大王即位に当たって用明天皇の皇子の'''厩戸王'''に、「を摂る(事実上改革初の'''摂政''')べし」と詔したとされ、こののち厩戸王と大臣馬子が協力して大王進め輔弼する政治体制が成立した。
=== 冠位十二階と憲法十七条 ===
603年、氏族に拘わらず個人の才能・功績によって位を授ける'''冠位十二階の制'''が定められた。位階として「徳、仁、礼、信、義、智」をそれぞれ大小に分けて十二の位を設けたもので、後の冠位制、位階制の手本となった。ただし、蘇我氏は冠位十二階の対象外だったとされる。翌604年には'''憲法十七条'''が制定されたが、これは豪族たちに国家官僚としての自覚を求めたものだった。ただし、蘇我氏は冠位十二階の対象外だったとされる
=== 遣隋使派遣 ===
== 律令国家への道 ==
=== 乙巳の変 ===
'''ヤマト政権'''は'''隋・唐'''の東方進出に圧迫されて国政改革の必要を生じた。7世紀後半には'''大化の改新'''と'''壬申の乱'''を経て、支配階級が唐の制度を模倣し、皇室を中心とする支配階級の結集を図り、天皇を政治的・宗教的中心とする'''中央集権国家'''を形成した。ここでは'''律令制度'''が支配の基本体制となった。人民は、良民たる'''公民'''と賤民たる'''奴婢'''とに分けられた。'''班田収授法'''によって一定の土地を与えられた公民は、'''祖・庸・調'''のほかに、兵役・強制労働を負担した。強制労働のことを'''雑徭'''という。これは特殊な奴隷制社会である。
=== 大化の改新 ===
ヤマト政権は'''隋・唐'''の東方進出に圧迫されて国政改革の必要を生じた。
=== 政権壬申===
'''ヤマト政権'''は'''隋・唐'''の東方進出に圧迫されて国政改革の必要を生じた。7世紀後半には'''大化の改新'''と'''壬申の乱'''を経て、支配階級が唐の制度を模倣し、皇室を中心とする支配階級の結集を図り、天皇を政治的・宗教的中心とする'''中央集権国家'''を形成した。ここでは'''律令制度'''が支配の基本体制となった。人民は、良民たる'''公民'''と賤民たる'''奴婢'''とに分けられた。'''班田収授法'''によって一定の土地を与えられた公民は、'''祖・庸・調'''のほかに、兵役・強制労働を負担した。強制労働のことを'''雑徭'''という。これは特殊な奴隷制社会である。
=== 皇親政治 ===
== 文化 ==
=== 仏教・儒教伝来 ===
6世紀、欽明天皇在位中、百済から公式に'''仏教'''が伝えられたとされる。また五経博士によって'''儒教'''も伝えられた。