「高等学校日本史A/第一章 明治維新」の版間の差分

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その後の1860(万延元)年、条約の批准のため、外国奉行'''新見正興'''を米艦ポーハタン号に乗せてワシントンに派遣した('''万延遣米使節''')。このとき、幕艦'''咸臨丸'''(艦長'''勝海舟''')も同行した。
1866(慶応2)年、孝明天皇が兵庫の開港に反対し、開港が遅れたので、その代償として輸入関税を一律5%に引き下げる'''改税約書'''に調印させられた。その翌年、ついに兵庫港開港の勅許がでた。
 
==4 貿易の影響==
1859(安政6)年から貿易が始まり、その中心港は'''横浜'''で、取引全体のおよそ3分の2を占めていた。また、アメリカは南北戦争のために貿易に手が回らず、取引の相手国としては'''イギリス'''がトップとなった。
日本の輸入品は'''毛織物'''や'''綿織物'''が70%以上を占め、輸出品は'''生糸'''や'''茶'''、'''蚕卵紙'''がほとんどだった。
貿易が始まってから1866年までの7年間は大幅な輸出超過であり、国内の物価の高騰をまねいた。幕府は1860(万延元)年、'''五品江戸廻送令'''を出し、雑穀・水油(菜種油)・蝋・呉服・生糸の5品は必ず江戸の問屋を経由させてから輸出するようにした。
また、日本と外国とでは金銀の交換比率がことなっていたので、大量の金が流出してしまった。そこで幕府は、質を大幅に下げた万延小判を鋳造した('''万延貨幣改鋳''')が、かえって物価の上昇を加速させてしまった。
輸出による生糸の需要増加は製糸業でのマニフェクチュア化を進めたが、安価な綿布の輸入によって国内の綿産業は深刻な打撃を受けた。