「高等学校日本史A/第一章 明治維新」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
編集の要約なし
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
43 行
和宮の政略結婚時に約束した攘夷の決行を長州藩や朝廷側が'''三条実美'''を江戸に下して迫ったため、幕府は1863(文久3)年5月10日からの攘夷開始を諸藩に命じた。そこで、その日から長州藩は下関海峡をとおる外国船を砲撃した(長州藩外国船砲撃事件)。また、生麦事件をおこした薩摩藩は報復としてイギリス海軍に攻撃され('''薩英戦争''')、攘夷の不可能を悟った。そして、会津藩とともに、朝廷の実権を奪って三条実美ら尊攘派公家を含む長州藩勢力を京都から追放した('''八月十八日の政変''')。
長州藩は勢力を回復するために京都守護職松平容保下の新撰組に尊攘派が殺された'''池田屋事件'''をきっかけに京都に攻め上ったが、薩摩・会津・桑名藩などに敗れた('''蛤御門の変'''['''禁門の変'''])。このため長州藩は賊軍と見なされ、'''第一次長州征討'''が始まり、ついに幕府に降伏した。さらに、外国船砲撃事件の復讐として英・仏・米・蘭の連合艦隊によって下関を占領された('''四国艦隊下関砲撃事件''')。これによって長州藩も攘夷不可能を認識することになった。
 
==7 幕府の滅亡==