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コラムモドキ、ツッコミどころだらけでどこから手を付けていいかわからん。とりあえずタイトルと教科書にふさわしくない体裁(話し言葉や暴言)から直す。 |
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[[高等学校世界史B/17〜18世紀のヨーロッパの文化と社会]]のコラムを修正予定。専攻が近代哲学だから私もスコラ哲学には批判的だが、あまりにもこれはひどすぎる。デカルトの理解も一面的に過ぎる。
{{コラム|
フランシス・ベーコンの職業は法律職でもあり、国会議員でもあったりして、ベーコンのいう「帰納法」などは、おそらく、法改正などの改革の必要性を念頭においており、「古典や文献に書いてあっただけの机上の空論ではなく、現実を受け入れよ」という、旧態依然とする既得権益に対する批判的な意味があるのだろう。きっと、ベーコンが著書で批判した既得権益のなかには、当時の既存の
実際、
なお、そのスコラ学とは、11世紀ごろから流行した学問で、タテマエでは特定の思想や哲学をもたず学問的に古典などを研究しようという方法だったが、しかし、実態はキリスト教中心の神学であり、神学の権威をギリシア哲学などで補強しようという実態だった。
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ところで、哲学では、「経験主義」と「合理主義」の対立がある。「経験」とは、言葉だけを見れば、物理学などの実験も含まれるが、しかし実態は、「経験主義」は、たびたび体験主義とはき違えられ、感覚主義に陥った。
デカルト(フランス人)は1596年生まれであるが、デカルトは「合理主義」に分類される。デカルトが「帰納法」でなく「演繹法」を重視したのは、もしかしたら、ともすれば感覚主義に陥りがちな自称「経験主義」
デカルトは合理主義に分類される。いっぽう、フランシス・ベーコンは経験論に分類される。
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経験論も合理論も、学問の改革の方法として提案されたという経緯を、私たちは知る必要がある。
デカルトのような数学者からすれば、おそらく、デカルトにとっては帰納法だろうが演繹法だろうが、数学的に正しい公式さえ発見できればどちらの思考法でも良いと思っているだろう。おそらくデカルトは、単に、当時のスコラ学と数学とを、一緒にされたくなかったのだろう。感覚主義的な自称「経験主義」
▲デカルトのような数学者からすれば、おそらく、デカルトにとっては帰納法だろうが演繹法だろうが、数学的に正しい公式さえ発見できればどちらの思考法でも良いと思っているだろう。おそらくデカルトは、単に、当時のスコラ学と数学とを、一緒にされたくなかったのだろう。感覚主義的な自称「経験主義」(笑)の自称「帰納法」(笑)なんかが数学に持ち込まれたら、デカルトは困るので、アンチテーゼとして「演繹法」を主張したにすぎないのだろう。
またデカルトは著書『方法序説』(ほうほう じょせつ)で、「神の存在証明」をしてみせたと主張しているのだが、これだって別に教会やスコラ学を信奉してるのではなく、むしろ不信感を抱いてるからこそ、皮肉として、手続き的な推論によって神を証明してみせたのだろう。
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{{コラム|デカルト『方法序説」|
デカルトの格言とされる「われ思う、ゆえにわれあり」は、デカルト著『方法序説』に書かれているが、じつはその格言は、デカルト本人にとって、割とどうでもいい事である。
この『方法序説』は、科学研究の方法論について書かれた書物であり、その主張内容も、
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といったように、科学研究のための思考法の紹介である。
背景として、おそらくデカルトの心中に「スコラ学
つまり、おそらくデカルトの心中に、スコラ学への疑念として、
:1:『明証』 スコラ学はそもそも前提が大昔の聖書や流行した古典にもとづいており、前提がオカシイ。
:2:『分析』 スコラ学は
:3:『総合』 スコラ学者どもは、物事を分類しただけで、組み立てようとせず、ほったらかしに放置したりする。あるいは、2『分析』の段階で、のちに組み立てられるように分解してない。(
:4:『枚挙』 スコラ学者は検証の際、自分勝手な都合で例外を設置する。
という不信感があるわけだろう。
また、デカルトは、「(幾何学の公理のような)絶対に正しいと思えるものだけを前提に推論しなさい。」のような思考法に必要な知性のことを、「理性」ではなく「良識」(ボン=サンス)と言っている。
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そしてデカルトは著書で、その「良識」の性質を述べた後にデカルトは数学的思考法を述べるのだから、つまり、デカルトの本音は、数学こそが良識である、というのが本音であろう。
つまり、スコラ学や教会などが道徳として説いている
また、デカルトは「良識」は
そしてコペルニクスやガリレオを弾圧するような自分勝手な既得権益の連中は、たいてい、数学が出来ない連中ばかりである、・・・・とデカルトは感じているのだろう。
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そもそも、まともな文献
膨大な過去の文献を読まないと全体像がつかめずに研究を始められないような学問(スコラ学みたいな三流学問)は、そもそも、価値が低いんですよ。
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だから、そういう文献をありがたがってる連中(スコラ学者)は、そもそも頭が悪い。
デカルトの時代、もはやスコラ学は
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