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椎楽 (トーク | 投稿記録)
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デカルト(フランス人)は1596年生まれであるが、デカルトは「合理主義」に分類される。デカルトが「帰納法」でなく「演繹法」を重視したのは、もしかしたら、ともすれば感覚主義に陥りがちな自称「経験主義」への反発があってのことだろう。
 
デカルトは合理主義に分類される。いっぽう、フランシス・ベーコンは経験論に分類される。
 
だが、私たちが哲学思想史の理解を深めるには、スコラ学批判と言う両者の文脈をもとに考える必要があり、形式的に分類を見るだけでは不十分である。
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デカルトのような数学者からすれば、おそらく、デカルトにとっては帰納法だろうが演繹法だろうが、数学的に正しい公式さえ発見できればどちらの思考法でも良いと思っているだろう。おそらくデカルトは、単に、当時のスコラ学と数学とを、一緒にされたくなかったのだろう。感覚主義的な自称「経験主義」の自称「帰納法」なんかが数学に持ち込まれたら、デカルトは困るので、アンチテーゼとして「演繹法」を主張したにすぎないのだろう。
 
(↑ホントに『方法序説』を読んだのか? 読んでないだろうなぁ……)
 
またデカルトは著書『方法序説』(ほうほう じょせつ)で、「神の存在証明」をしてみせたと主張しているのだが、これだって別に教会やスコラ学を信奉してるのではなく、むしろ不信感を抱いてるからこそ、皮肉として、手続き的な推論によって神を証明してみせたのだろう。
 
(↑皮肉なんかじゃなくてデカルトにとっては切実な問題だったから『方法序説』やそのほかの著作でも「神の存在証明」に取り組んだのだが)
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{{コラム|デカルト『方法序説」|
(基本的なツッコミとして、「数学者」デカルトということばかりが極大化されている。デカルトがなぜ、数学を重視したのかが執筆者である某氏の思い入れだけで書かれている。デカルトの形而上学をちゃんと勉強してから書いてくれ。あと、時代背景も新教と旧教の対立とかもある。そういうを理解していないから訳のわからない結論書かれる。というか、批判的継承というのが分からないんだろうなぁ。あと、スコラ学への理解も古臭い)
 
デカルトの格言とされる「われ思う、ゆえにわれあり」は、デカルト著『方法序説』に書かれているが、じつはその格言は、デカルト本人にとって、割とどうでもいい事である。
 
(ツッコミ:そんなわけがない。コギト原理と言われる、デカルトの思想の出発点だ。『省察』やその他の真っ当な解説くらいは読んでから言え)
 
この『方法序説』は、科学研究の方法論について書かれた書物であり、その主張内容も、
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といったように、科学研究のための思考法の紹介である。
 
(ツッコミ:『方法序説』の目的自体を読み違えている)
 
背景として、おそらくデカルトの心中に「スコラ学にはこうした思考法ができていない」というスコラ学への不信感があるのだろう。
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そしてデカルトは著書で、その「良識」の性質を述べた後にデカルトは数学的思考法を述べるのだから、つまり、デカルトの本音は、数学こそが良識である、というのが本音であろう。
 
(ツッコミ:どんなトンデモ本を読んだのか知らんが、せめてデカルトの定義する「良識」をまずそのまま引用した方がなんぼかマシずっといい)
 
つまり、スコラ学や教会などが道徳として説いているものは、「良識」ではないだろう、という背景がある。おそらくデカルト流の「コペルニクスやガリレオを弾圧するような教会の連中なんかに、良識があるわけないだろ」という皮肉だろう。
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そういう視点で「われ思う、ゆえに我あり」を解釈しなおせば、本音は「わたしは神のためにあるのではなく、ましてや教会やスコラ学のために私があるのではない」という、皮肉だろう。
 
(ツッコミ:千歩譲って「そういう解釈もできるよね」とはいえるが、これは教科書だ。まずオーソドックスな理解を先に)
 
(ここから先は完全にただのトンデモ。あるいは只のイチャモン。削除してちゃんとしたまとめに変える必要がある。第一、このコラム自体が「モジュール化しづらい記述方法」(以下略))