「高等学校世界史探究/第二次世界大戦と新しい国際秩序の形成 学習のポイント」の版間の差分

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のちの第二次大戦で、最終的にイギリス・フランスはドイツと戦争をするが、じつは戦争前は当初、英仏はドイツの再軍備などを容認する'''宥和政策'''(ゆうわ せいさく)の方針であった。
 
:※ 日本の一般的な中学むけ検定教科書では、英仏の対ドイツの宥和政策については、説明していない。宥和政策は、高校の範囲。
 
また、ソ連に対抗するためにドイツと協力すべきと言う意見も、英仏にあった。(※ これは中学の歴史教科書で、清水書院がそう言ってる。また、社会人向けの山川出版『もういちど読む』シリーズの世界近代史でも、触れている。)
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では、ファシズム 対 反ファシズム の構図が鮮明になったのはいつかと言うと、様々な考えはあるだろうが、第二次大戦中に連合国(英米の陣営)によって出された大西洋憲章が、二次大戦での対独との戦いを反ファシズムとの戦いと意義づけている。なので、日本の中学校教育の段階でなら、二次大戦を ファシズム 対 反ファシズム の戦いと位置づけるのは、かならずしも間違いとは言い切れない。また、大西洋憲章で歌われた様々な理念が、国連憲章などを通じて戦後の国際政治に影響を与えているので、大西洋憲章を無視するわけにもいかない中学教育の事情もあろう。
 
 
第二次大戦中にイギリス首相になったチャーチルは、首相になる以前からドイツを敵視しており、チャーチルは宥和政策に批判的な政治家である。(チャーチルについては、中学で習う。ヤルタ会談(中学で習う)の写真にも、チャーチルが写っている。)
 
 
;参考
[[画像:Bundesarchiv Bild 183-R69173, Münchener Abkommen, Staatschefs.jpg|thumb|300px|right|ミュンヘン会談。左からチェンバレン、
ダラディエ(フランス)、ヒトラー(ドイツ)、ムッソリーニ(イタリア)、イタリア外相。<br>当時のチェコスロバキアは招かれてない。]]
チャーチルが首相になる前の首相の人(チェンバレンさん)が、宥和政策を行っていた。(※ 教科書では: チェンバレンについては、高校の検定教科書でも本文では出てこない場合も多い。教科書では、ミュンヘン会談の写真の真下の説明文で、ミュンヘン会談当時のイギリス首相がチェンバレンであることが紹介されるだけである。教科書では、ミュンヘン会談の写真で、チェンバレンとヒトラーとムッソリーニが写っている写真が紹介されている。)
 
けっしてチャーチルが戦前からずっと首相だったわけではない。また、けっしてチャーチルの考え方が(対ドイツ)宥和政策から主戦派(、つまり、「ドイツをやっつけろ」的な派)に変わったわけでもない。チャーチルは最初から主戦派だったと、歴史学では一般的に思われている。
 
さて、戦後日本の歴史評論では、よく、チェンバレンを臆病者の平和主義者として批判する見方が昭和のころは有力だったが、平成20年以降の近年では別の見方として、もしやチェンバレンは東欧を犠牲にしてイギリスの海外植民地を温存しようと考えた冷酷な帝国主義者なのではという見方もある。
 
もっとも、高校教育ではそういう見方の比較検討までは踏み込まず、単にそれらの議論の土台となる歴史的事実を習うだけである。
 
 
 
== ナチスの台頭 ==