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椎楽 (トーク | 投稿記録)
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(全体的なツッコミ:『方法序説』コラムよりは誤解・誤読は少ないが、内容が錯綜としている。主執筆者の某氏自身がちゃんと理解を整理できていないのだろう)
 
当時17世紀初頭まだキリスト教神学の(聖書などの)古典研究的な「スコラ(哲)学」が学問体系の主流であった。スコラ学とは、11世紀ごろから流行し確立された学問で、タテマエでは特定の思想や哲学をもたず学問的に古典などを研究しようという方法だった。しかし、当時の西欧で学問のできるところといえば教会(修道院)であり、スコラ学とキリスト教とは切り離せないものであった。そしてれゆえに、最も重視されたのはキリスト教神学をギリシャ哲学による体系化・理論化だった。そのためにギリシャ哲学は活用された。しかし、十字軍以降の東西交流の伸長やルネサンスによる人間中心主義の風潮は、学問がスコラ哲学のような観念的な思想からより現実的な思想へと転換することを要請した。
フランシス・ベーコンの職業は法律職や国会議員であり政治家だったといえる。それが「問題なのは、ただ思索上の成功だけでなく、実は人類の実情に幸福と成果をもたらすすべての力である」(『大革新』より)という宣言のもと、思弁的で霊魂や神を中心とした研究から人間や現実的なものごとについての思索と研究をすすめる動機となったのだろう。
 
こうした中で、イギリスではロジャー・ベーコンやオッカムといった革新的な人物が現れた。こうした学問的な流れがイギリス経験論とよばれる科学的な思考の基礎となった。イギリス経験論の始祖とされるのがフランシス・ベーコンの職業である。彼は法律職や国会議員であを歴任していて、学者というよ政治家だったといえる。それが「問題なのは、ただ思索上の成功だけでなく、実は人類の実情に幸福と成果をもたらすすべての力である」(『大革新』より)という宣言のもと、思弁的で霊魂や神を中心とした研究からスコラ哲学を批判して人間や現実的なものごとについての思索と研究をすすめる動機となったのだろう。
当時はまだキリスト教神学の(聖書などの)古典研究的な「スコラ(哲)学」が学問体系の主流であった。スコラ学とは、11世紀ごろから流行した学問で、タテマエでは特定の思想や哲学をもたず学問的に古典などを研究しようという方法だった。しかし、当時の西欧で学問のできるところといえば教会(修道院)であり、スコラ学とキリスト教とは切り離せないものであった。そして、最も重視されたのはキリスト教神学をギリシャ哲学による体系化・理論化だった。
 
[スコラ哲学者の中には、ロジャー・ベーコン(1214年生)という人物がいる。彼はイスラーム科学の情報に詳しく、実験や観察の重要性を主張し、現実的で改革的な人物だった。しかし、ロジャーのような人物はスコラ哲学の中では主流にはならなかった。]
 
(↑書き換えたが、不要。削るべき)
 
[ちなみに帰納法の考え方は既に古代ギリシャのアリストテレスによって提唱されている。しかし、帰納法の考え方を科学研究に応用できることを提唱したのは、フランシス・ベーコンであった。最終的に帰納法を科学研究に用いるための原則を打ち立てたのは、ベーコンよりも100年ほど後に登場したジョン・スチュワード・ミルである。]
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デカルト(フランス人)は1596年生まれであるが、デカルトは「合理主義」に分類される。デカルトが「帰納法」でなく「演繹法」を重視したのは、もしかしたら、ともすれば感覚主義に陥りがちな自称「経験主義」への反発があってのことだろう。
 
いっぽう、フランシス・ベーコンは経験論に分類される。
 
だが、私たちが哲学思想史の理解を深めるには、スコラ学批判と言う両者の文脈をもとに考える必要があり、形式的に分類を見るだけでは不十分である。