「高等学校日本史B/律令国家への道」の版間の差分

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中央集権国家を目指す'''中大兄皇子'''(なかのおおえのみこ)と、'''中臣鎌足'''(なかとみのかまたり)らが蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)らと謀り、645年に蘇我入鹿を殺害した。蝦夷はこの事件を知り自殺して、蘇我宗家は滅んだ。これを'''乙巳の変'''(いっしのへん)という。
 
=== 大化の改新 ===
 
乙巳あと変ののち皇極天皇は退位し、弟の軽皇子が新たに大王に即位した(孝徳天皇)。皇太子となった中大兄皇子らが取り主導し、政治改革を々と行なった。この皇子ら一連の改革を <span style="color:red"><big>'''大化の改新</big></span>'''(たいか かいしん) という。言い伝えでは、645年に初めて元(ねんごう)を「大化」(たいか)に定めたと言われますが、確認されていません
* 大化の改新(たいか の かいしん)
このあと、中大兄皇子らが権力を取り、政治改革を色々と行なう。この皇子らの改革を <span style="color:red"><big>大化の改新</big></span>(たいか の かいしん) という。言い伝えでは、645年に年号(ねんごう)を「大化」(たいか)に定めたと言われますが、確認されていません。
もし、この年に「大化」の年号を定めたなら、この「大化」という年号により、日本では始めて年号が定められたことになります。なお、年号をさだめることは、中国大陸の帝国を参考にしたのだろうと思われます。
 
[[ファイル:Preceding naniwanomiya.jpg|thumb|300px|難波宮(なにわのみや)の復元模型(大阪歴史博物館)]]
大王は現在の大阪府にあった難波長柄豊碕宮(なにわながらのとよさきのみや、'''難波宮''')に遷都し、政治改革が進められた。
645年の一連の事件により、皇極天皇(こうぎょくてんのう)は譲位して、同645年に皇極の弟の軽皇子(かるのみこ)が即位して孝徳天皇(こうとく てんのう)になる。
なお、新政権は右大臣に阿部内麻呂(あべのうちまろ)を登用し、左大臣に蘇我倉山石川麻呂を登用し、内臣(うちつおみ)に中臣鎌足を登用した。(※ 左大臣に蘇我氏がいることに注目。)
 
(なお、皇極は女性である。)
 
(なお中大兄皇子は、のちに天皇( 天智天皇(てんじ てんのう) )に即位することになるが、この大化の改新のときには、まだ中大兄皇子は天皇では無い。)
 
 
なお、新政権は右大臣に阿部内麻呂(あべのうちまろ)を登用し、左大臣に蘇我倉山石川麻呂を登用し、内臣(うちつおみ)に中臣鎌足を登用した。(※ 左大臣に蘇我氏がいることに注目。)
 
(しかし649年に、蘇我倉山石川麻呂は謀反をうたがわれて自殺に追い込まれてしまう。(※ よって彼は業績を残せず、このためか、検定教科書には蘇我倉山石川麻呂について書いてない検定教科書も多い。)(※ 山川出版の詳説日本史には、蘇我倉山石川麻呂について書いてある。) )
 
また、妹子の遣隋使に同行した高向玄理(たかむこのげんり)・旻(みん、 ※人名)は、国博士(くにのはかせ)として登用された。
 
645年、中大兄皇子は有力な大王候補であった古人大兄王(ふるひとのおおえのおう)を滅ぼし、649年には対立を深めた蘇我倉山田石川麻呂を滅ぼして政権から有力な豪族を排除、中央集権を強めた。
(遣隋使に同行した南淵請安(みなみぶちのしょうあん)は国博士に登用されてない。南淵請安の生没年は不明であり、大化の改新の時点で、すでに南淵は死亡していたのかもしれない。)
 
 
孝徳天皇は都を(飛鳥から)難波宮(なにわのみや)に移します。難波宮は大阪府にあります。
 
=== 改新の詔 ===