「日本史/古代/飛鳥時代」の版間の差分

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== 飛鳥朝廷 ==
=== 厩戸王と馬子の政治 ===
六世紀後半、東アジアは大帝国'''隋'''の勢力拡大に苦しむ時代となっていた。国際的緊張の中で倭国は、「ヤマト政権」という古墳時代から続く枠組みから脱却して「国家組織」を作り上げる必要に迫られていた。592年、'''大臣蘇我馬子'''の援助を受けて即位した'''崇峻天皇'''が、対立した馬子の指示で殺害される事件が起こった。空位となった大王位に、馬子は自らの姪にして敏達天皇の大后(おおきさき)であった額田部王女(ぬかたべのひめみこ)を推した('''推古天皇''')。推古天皇は大王即位に当たって、用明天皇の皇子の'''厩戸王'''に、「治参加摂る求め(事実上の初の'''摂政''')べし」と詔したとされ、こののち厩戸王と大臣馬子が協力して大王を輔弼する政治体制が成立した。
 
=== 冠位十二階と憲法十七条 ===
603年、氏族に拘わらず個人の才能・功績によって位を授ける'''冠位十二階の制'''が定められた。位階として「徳、仁、礼、信、義、智」をそれぞれ大小に分けて十二の位を設けたもので、後の冠位制、位階制の手本となった。ただし、蘇我氏は冠位十二階の対象外だったとされる。翌604年には'''憲法十七条'''が制定された。これは豪族らに国家官僚としての自覚を求めたものだった。