「高等学校日本史B/古墳とヤマト王権」の版間の差分

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== 古墳の出現 ==
[[画像:NintokuTomb.jpg|thumb|left|大仙(だいせん)古墳。百舌鳥(もず)古墳群の中心的な古墳で、被葬者は仁徳(にんとく)天皇と考えられているが、諸説ある。(大阪府堺市)]]
[[File:Bronze Mirror in Ancient Japan.jpg|thumb|三角縁神獣鏡(さんかくぶち しんじゅうきょう)]]
[[File:KofunSoldier.jpg|thumb|140px|埴輪。武装男子立像(群馬県太田市出土)東京国立博物館蔵、国宝]]
 
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最大規模の古墳は、大阪府にある'''前方後円墳'''(ぜんぽうこうえんふん)の'''大仙古墳'''(だいせんこふん)であり、大王陵と考えられている。
 
=== 大王の出現 ===
[[画像:NintokuTomb.jpg|thumb|left|仁徳(にんとく)天皇陵(てんのうりょう)と思われている大仙(だいせん)古墳<br />大阪府堺市。前方後円墳(ぜんぽう こうえんふん) 。]]
5世紀の後半ごろから、ヤマト王権は、ほぼ各地を平定した。
日本では、ヤマト王権の中の、もっとも有力な支配者を、'''大王'''(おおきみ)と呼んでいた。稲荷山古墳(いなりやま こふん、埼玉県)から出土した鉄剣の銘文で、みずから「大王」と読んでいる。中国では「倭王」(わおう)と呼んでいた階級であろう。大王の一族は、のちの天皇の一族である。たとえば、5世紀の中ごろに近畿地方に作られた大仙(だいせん)古墳は、大王の墓だと思われている。
 
そして、各地の豪族たちはヤマト王権に仕えた。
 
このころには、ほぼ政権の権力が安定しており、ヤマト王権の政治組織を整えられるようになった。そして、さまざまな政治の制度が作られた。
 
== ヤマト王権 ==