「高等学校日本史B/古墳とヤマト王権」の版間の差分

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== ヤマト王権 ==
=== 近畿豪族の連合 ===
特に大きな古墳が、大和(やまと、奈良県)や河内(かわち、大阪府)を中心に多く作られているので、近畿地方を中心に、有力な豪族たちがいたと思われている。この近畿地方の有力な豪族たち連合政権を形成しており、この政権のこと指して、現代では'''ヤマト王権'''(ヤマトおうけん)、'''ヤマト政権'''などという。べつに当時の人が「ヤマト王権」と呼んでいたわけではない
 
4世紀〜5世紀には、前方後円墳が、大和地方だけでなく、各地に広がっていく。5世紀の後半には、ヤマト王権は九州から関東までを支配していた。また、各地に前方後円墳があることから、
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古墳時代の始めのうちは、まだ日本の統一がほとんど進んでおらず、ヤマト王権は、まだ、今の日本語で言う「朝廷」と呼べるような段階には至ってない。ヤマト王権が、古墳時代での各地の政権の統一をへて、のちの飛鳥時代の朝廷へと、なっていく。
 
=== 大王の出現 ===
[[画像:NintokuTomb.jpg|thumb|left|仁徳(にんとく)天皇陵(てんのうりょう)と思われている大仙(だいせん)古墳<br />大阪府堺市。前方後円墳(ぜんぽう こうえんふん) 。]]
5世紀の後半ごろから、ヤマト王権は、ほぼ各地を平定した。
日本では、ヤマト王権の中の、もっとも有力な支配者を、'''大王'''(おおきみ)と呼んでいた。稲荷山古墳(いなりやま こふん、埼玉県)から出土した鉄剣の銘文で、みずから「大王」と読んでいる。中国では「倭王」(わおう)と呼んでいた階級であろう。大王の一族は、のちの天皇の一族である。たとえば、5世紀の中ごろに近畿地方に作られた大仙(だいせん)古墳は、大王の墓だと思われている。
 
そして、各地の豪族たちはヤマト王権に仕えた。
 
このころには、ほぼ政権の権力が安定しており、ヤマト王権の政治組織を整えられるようになった。そして、さまざまな政治の制度が作られた。
 
== 古墳の変化 ==