「高等学校倫理/近代思想の展開Ⅱ」の版間の差分

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'''観念論'''とは、あらゆるものが精神や心などのような霊(魂)に結びつけられるという思想である。他方、'''唯物論'''はあらゆる現象は物質の変化や運動に還元できるという思想である。科学上の発見は唯物論の足場を着々と固めていった。そんな中でガリレオの影響下で数学と物理学を学び、一時ベーコンの秘書もつとめた'''ホッブズ'''が登場する。
 
ホッブズは当時の最新の科学的な知見を基に、世界に存在するのは物質とその運動だけであり、世界のすべては物質とその機械的な運動によって機械的に決まると考えた。それは物体の運動、変化のような自然現象にとどまらず、人間の意識・魂・心も、身体の器官に何らかの運動が起きたことによって生じたものであるとした。さらに社会や国家といった、生物でもなく形あるものでもないものも、自然の物質と同じように機械的に決まるのだという。それが、'''社会契約'''という発想につながっていくのだが、彼の社会契約論についての説明は[[高等学校倫理/民主主義社会の倫理と思想]]にゆずることにしよう。
 
ホッブズが当時の学問に与えた衝撃は大きく、イギリスの哲学や神学はホッブズやデカルトによって開拓された思想の継承と批判を通じて合理化を図った。そうした中で登場するのがロックである。
 
ロックはまず、人間の心の表象(観念)はどこから来たのかを考えた。彼は、デカルトが示した人間が生まれつき持っている観念(生得観念)を否定し、観念はかつて感覚した物事が反映したものだとした。私たちは何も感じなければ、意識は白紙('''タブラ・ラサ''')のままだという。
 
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! タブラ・ラサ
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| 心は、言ってみれば文字をまったく欠いた白紙で、観念はすこしもないと想定しよう。どのようにして心は観念を備えるようになるか。人間の忙しく果てしない{{ruby|心想|ファンシィ}}が心にほとんど限りなく多種多様に描いてきた、あの膨大な貯えを心はどこから得るか。どこから心は理知的推理と材料をわがものにするか。これに対して、私は一語で経験からと答える。この経験に私たちの一切の知識は根底を持ち、この経験からいっさいの知識は究極的に由来する。
 
――『人間知性論』第2巻第一章(『世界の名著27 ロック ヒューム』中央公論社,1968年)」
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===その後の経験論===