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椎楽 (トーク | 投稿記録)
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節構成いろいろ修正
154 行
https://www.marxists.org/archive/marx/works/1867-c1/ch01.htm
 
== 修正予定 ==
=== 修正予定 ===
[[高等学校世界史B/17〜18世紀のヨーロッパの文化と社会]]のコラムを修正予定。専攻が近代哲学だから私もスコラ哲学には批判的だが、あまりにもこれはひどすぎる。デカルトの理解も一面的に過ぎる。
*[[学習方法/高校卒業後の社会科公民の勉強ガイド]]――人文学・社会科学への無知と蔑視にまみれた記事のため。
*[[高等学校世界史B/17〜18世紀のヨーロッパの文化と社会]]のコラムを修正予定。専攻が近代哲学だから私もスコラ哲学には批判的だが、あまりにもこれはひどすぎる。デカルトの理解も一面的に過ぎる。
 
文章と文章の間の丸カッコは私椎楽のツッコミ
 
{{コラム|ベーコンとデカルト――近代的思考の芽生え|
(全体的なツッコミ:『方法序説』コラムよりは誤解・誤読は少ないが、内容が錯綜としている。主執筆者の某氏自身がちゃんと理解を整理できていないのだろう)
 
17世紀初頭は、まだキリスト教神学の(聖書などの)古典研究的な「スコラ(哲)学」が学問体系の主流であった。スコラ学とは、11世紀ごろ確立された学問で、タテマエでは特定の思想や哲学をもたず学問的に古典などを研究しようという方法だった。しかし、当時の西欧で学問のできるところといえば教会(修道院)であり、スコラ学とキリスト教とは切り離せないものであった。それゆえに、最も重視されたのはキリスト教神学の体系化・理論化だった。そのためにギリシャ哲学は活用された。13~14世紀にはロジャー・ベーコンやオッカムといった革新的な人物が現れていたが、東西交流の伸長やルネサンスによる人間中心主義の風潮は、学問がスコラ哲学のように観念的なものからより現実的なものへと転換することをより一層進めた。
 
こうした学問的な流れがイギリス経験論とよばれる科学的な思考の基礎となった。そのイギリス経験論の始祖とされるのがフランシス・ベーコンである。彼は法律職や国会議員を歴任し、学者というよりも政治家だった。それが「問題なのは、ただ思索上の成功だけでなく、実は人類の実情に幸福と成果をもたらすすべての力である」(『大革新』)という宣言のもと、思弁的で霊魂や神を中心としたスコラ哲学を批判して人間や現実的なものごとについての思索と研究をすすめる動機となったのだろう。ベーコンは物事への認識の源を人間の経験にもとめた。そして、いくつもの実験結果から自然法則を見出す帰納法を科学研究に取り入れた。
 
[ちなみに帰納法の考え方は既に古代ギリシャのアリストテレスによって提唱されている。しかし、帰納法の考え方を科学研究に応用できることを提唱したのは、フランシス・ベーコンであった。最終的に帰納法を科学研究に用いるための原則を打ち立てたのは、ベーコンよりも100年ほど後に登場したジョン・スチュワード・ミルである。]
 
(↑書き換えたが、不要だろう。「倫理」の脚注に入れれば済む話か)
 
他方、フランスのデカルトは合理主義という、人間の理性を重んじる「学派」に分類される。彼はカトリックとプロテスタントの対立や様々な科学的な発見によってこれまでの世界観が大きく揺らいでいる中で、確実なものを求めようとした。
 
経験論も合理論も形式的に分類を見るだけでは不十分である。両方とも学問の改革の方法として提案されたものであり、スコラ学批判と言う両者の文脈を私たちは知る必要がある。
 
デカルトのような数学者からすれば、おそらく、デカルトにとっては帰納法だろうが演繹法だろうが、数学的に正しい公式さえ発見できればどちらの思考法でも良いと思っているだろう。おそらくデカルトは、単に、当時のスコラ学と数学とを、一緒にされたくなかったのだろう。感覚主義的な自称「経験主義」の自称「帰納法」なんかが数学に持ち込まれたら、デカルトは困るので、アンチテーゼとして「演繹法」を主張したにすぎないのだろう。
 
(↑ホントに『方法序説』を読んだのか? 読んでないだろうなぁ……)
 
またデカルトは著書『方法序説』(ほうほう じょせつ)で、「神の存在証明」をしてみせたと主張しているのだが、これだって別に教会やスコラ学を信奉してるのではなく、むしろ不信感を抱いてるからこそ、皮肉として、手続き的な推論によって神を証明してみせたのだろう。
 
(↑皮肉なんかじゃなくてデカルトにとっては切実な問題だったから『方法序説』やそのほかの著作でも「神の存在証明」に取り組んだのだが)
}}
 
 
{{コラム|デカルトの生きた時代と思想(修正)|
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デカルトの時代、もはやスコラ学は
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=== 修正終了 ===
{{コラム|ベーコンとデカルト――近代的思考の芽生え|
(全体的なツッコミ:『方法序説』コラムよりは誤解・誤読は少ないが、内容が錯綜としている。主執筆者の某氏自身がちゃんと理解を整理できていないのだろう)
 
17世紀初頭は、まだキリスト教神学の(聖書などの)古典研究的な「スコラ(哲)学」が学問体系の主流であった。スコラ学とは、11世紀ごろ確立された学問で、タテマエでは特定の思想や哲学をもたず学問的に古典などを研究しようという方法だった。しかし、当時の西欧で学問のできるところといえば教会(修道院)であり、スコラ学とキリスト教とは切り離せないものであった。それゆえに、最も重視されたのはキリスト教神学の体系化・理論化だった。そのためにギリシャ哲学は活用された。13~14世紀にはロジャー・ベーコンやオッカムといった革新的な人物が現れていたが、東西交流の伸長やルネサンスによる人間中心主義の風潮は、学問がスコラ哲学のように観念的なものからより現実的なものへと転換することをより一層進めた。
 
こうした学問的な流れがイギリス経験論とよばれる科学的な思考の基礎となった。そのイギリス経験論の始祖とされるのがフランシス・ベーコンである。彼は法律職や国会議員を歴任し、学者というよりも政治家だった。それが「問題なのは、ただ思索上の成功だけでなく、実は人類の実情に幸福と成果をもたらすすべての力である」(『大革新』)という宣言のもと、思弁的で霊魂や神を中心としたスコラ哲学を批判して人間や現実的なものごとについての思索と研究をすすめる動機となったのだろう。ベーコンは物事への認識の源を人間の経験にもとめた。そして、いくつもの実験結果から自然法則を見出す帰納法を科学研究に取り入れた。
 
[ちなみに帰納法の考え方は既に古代ギリシャのアリストテレスによって提唱されている。しかし、帰納法の考え方を科学研究に応用できることを提唱したのは、フランシス・ベーコンであった。最終的に帰納法を科学研究に用いるための原則を打ち立てたのは、ベーコンよりも100年ほど後に登場したジョン・スチュワード・ミルである。]
 
(↑書き換えたが、不要だろう。「倫理」の脚注に入れれば済む話か)
 
他方、フランスのデカルトは合理主義という、人間の理性を重んじる「学派」に分類される。彼はカトリックとプロテスタントの対立や様々な科学的な発見によってこれまでの世界観が大きく揺らいでいる中で、確実なものを求めようとした。
 
経験論も合理論も形式的に分類を見るだけでは不十分である。両方とも学問の改革の方法として提案されたものであり、スコラ学批判と言う両者の文脈を私たちは知る必要がある。
 
デカルトのような数学者からすれば、おそらく、デカルトにとっては帰納法だろうが演繹法だろうが、数学的に正しい公式さえ発見できればどちらの思考法でも良いと思っているだろう。おそらくデカルトは、単に、当時のスコラ学と数学とを、一緒にされたくなかったのだろう。感覚主義的な自称「経験主義」の自称「帰納法」なんかが数学に持ち込まれたら、デカルトは困るので、アンチテーゼとして「演繹法」を主張したにすぎないのだろう。
 
(↑ホントに『方法序説』を読んだのか? 読んでないだろうなぁ……)
 
またデカルトは著書『方法序説』(ほうほう じょせつ)で、「神の存在証明」をしてみせたと主張しているのだが、これだって別に教会やスコラ学を信奉してるのではなく、むしろ不信感を抱いてるからこそ、皮肉として、手続き的な推論によって神を証明してみせたのだろう。
 
(↑皮肉なんかじゃなくてデカルトにとっては切実な問題だったから『方法序説』やそのほかの著作でも「神の存在証明」に取り組んだのだが)
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*『論理的に考え、書く力』(吉沢光雄著, 光文社(光文社新書))
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==記述中==
*[[高等学校倫理]]
 
==修正予定==
*[[学習方法/高校卒業後の社会科公民の勉強ガイド]]――人文学・社会科学への無知と蔑視にまみれた記事のため。
==執筆準備中==
*[[創作・歴史を楽しむための軍事知識]]