「中国史」の版間の差分

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===中国の半植民地化===
[[w:18世紀|18世紀]]が終わるまでには、清とヨーロッパとの貿易は[[w:イギリス|イギリス]]がほぼ独占していた。しかし、当時イギリスの物産で中国に売れるものはほとんどなく、逆に中国の安いお茶はイギリスの労働者階級を中心に大きな需要があったこともあり、イギリスは貿易赤字に苦しんだ。そこで、イギリスは[[w:麻薬|麻薬]]である[[w:アヘン|アヘン]]を中国に輸出し始めた。結果、イギリスは大幅な貿易黒字に転じた。しかし、中国にはアヘン中毒者が蔓延し、この事態を重く見た清朝政府は、[[w:1839年|1839年]]に[[w:林則徐|林則徐]]に命じてアヘン貿易を取り締まらせた。しかし、これに反発したイギリス政府は清に対して翌[[w:1840年|1840年]]宣戦布告した。[[w:アヘン戦争|アヘン戦争]]と呼ばれるこの戦争では、工業化をとげ、近代兵器を持っていたイギリス軍が勝利した。これ以降、イギリスをはじめとするヨーロッパの列強による中国の半植民地化が進んだ。
 
国内的には、[[w:太平天国の乱|太平天国の乱]]などの反乱もしばしば起きた。これに対し、[[w:同治帝|同治帝]](在位[[w:1861年|1861年]] - [[w:1875年|1875年]])の治世の下で、ヨーロッパの技術の取り入れ([[w:洋務運動|洋務運動]])が行われた。
 
[[w:1894年|1894年]]から翌[[w:1895年|1895年]]にかけて清と[[w:大日本帝国|日本]]との間で行われた[[w:日清戦争|日清戦争]]にも清は敗退した。これは洋務運動の失敗を意味するものであった。この戦争の結果、日本と清との間で結んだ[[w:下関条約|下関条約]]により、[[w:李氏朝鮮|李氏朝鮮]]の独立が認められ、中国の王朝が長年続けてきた[[w:冊封体制|冊封体制]]が崩壊した。
 
その後、清朝政府は改革を進めようとしたものの、沿岸地域を[[w:租借|租借]]地とされるなどのイギリス・[[w:フランス|フランス]]・[[w:ロシア帝国|ロシア]]・[[w:ドイツ|ドイツ]]・[[w:アメリカ合衆国|アメリカ合衆国]]・日本による半植民地化の動きは止まらなかった。結局、[[w:1911年|1911年]]の[[w:武昌|武昌]]での軍隊蜂起をきっかけに[[w:辛亥革命|辛亥革命]]が起こり、各地の省が清からの独立を宣言した。翌[[w:1912年|1912年]][[w:1月1日|1月1日]]、革命派の首領の[[w:孫文|孫文]]によって[[w:南京|南京]]で[[w:中華民国|中華民国]]の樹立が宣言された。[[w:北京|北京]]にいた清の皇帝[[w:溥儀|溥儀]](宣統帝)は、清朝政府内部の実力者である[[w:袁世凱|袁世凱]]により[[w:2月12日|2月12日]]に退位させられ、清は完全に滅亡した。
 
=== 中華民国 ===