「中国史」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
90 行
 
=== 中華民国 ===
[[w:中華民国|中華民国]]は成立したものの、実際は各地の[[w:軍閥|軍閥]]が[[w:群雄割拠|群雄割拠]]する状態であり、列強による中国の半植民地化も止まらなかった。[[w:清|清]]朝時代からの権益保持を狙う[[w:イギリス|イギリス]]は[[w:ロシア|ロシア]]、[[w:日本|日本]]を牽制するために[[w:モンゴル|モンゴル]]、[[w:ウイグル|ウイグル]]、[[w:満州|満州]]諸族を中華民国が支配することを認めながら、[[w:チベット|チベット]]を保護下に収めた。そんな中、孫文の後継者である[[w:蒋介石|蒋介石]]は、[[w:1926年|1926年]]に[[w:広州|広州]]から[[w:北伐|北伐]]を開始し、ほぼ中国全土を支配するに至った。蒋介石は経済近代化のための新通貨(法幣)の権益をイギリスに与えることにより、[[w:姻族|姻族]]の[[w:宋|宋]]氏と共に民国の政治・軍事・経済を独裁的に掌握することとなった。
 
[[w:1921年|1921年]]には[[w:中国共産党|中国共産党]]が成立し、一時蒋介石率いる[[w:中国国民党|中国国民党]]とも協力していた。しかし、蒋介石は[[w:共産主義|共産主義]]を敵視していたため両者の協力関係は終わり、中国共産党は[[w:毛沢東|毛沢東]]の指揮のもと、農村を中心としてその支配領域を広げていった。これに対し、蒋介石は断固とした攻撃を加え[[w:瑞金|瑞金]]に包囲し、[[w:延安|延安]]に追った。
 
[[w:ソビエト連邦|ソビエト連邦]]が樹立した[[w:モンゴル人民共和国|モンゴル人民共和国]]に対抗するため、日本は1931年に[[w:張景恵|張景恵]]ら満州軍閥と共同して、蒋介石の満州進出に了解を与えた[[w:張学良|張学良]]を追い、[[w:満州国|満州国]]を独立させた。[[1937w:937年|937年]]には、日本軍が中国本土に侵入し、中華民国と全面戦争に入った([[w:日中戦争|日中戦争]])。これに対し、蒋介石は当初日本との戦いよりも中国共産党との戦いを優先していたが、[[w:西安事件|西安事件]]により、二つの党が協力して日本と戦うことになった。
 
しかし日中戦争は当初日本軍優位に進み、日本軍は多くの都市を占領したが、各拠点支配はできても広大な中国において面での支配はできず、これを利用した国民党軍・共産党軍ともに各地でゲリラ戦を行い日本軍を苦しめ、戦線を膠着させた。日本は[[w:汪兆銘|汪兆銘]]ら国民等左派を懐柔、[[w:南京国民政府|南京国民政府]]を樹立させたが、国内外ともに支持は得られなかった。加えて[[w:1941年|1941年]]12月、日本はアメリカやイギリス(連合国)とも戦端を開いたが([[w:太平洋戦争|太平洋戦争]])、一方で中国で多くの軍隊を釘付けにされるなど、苦しい状況に落ち込まされた。国民党政府は連合国側に所属し、アメリカなどの豊富な救援を受けることとなった。
 
結局戦争は[[w:1945年|1945年]]8月日本が無条件降伏することで終結した。国民党政府は連合軍に所属していたこともあり、戦勝国として有利な立場を有することとなり、日本だけでなく、ヨーロッパ諸国も[[w:租界|租界]]を返還するなど、中国の半植民地化は一応の終わりを見せた。
 
しかしまもなく国民党と共産党との対立が激化して、[[w:国共内戦|国共内戦]]が勃発し、結果として中国共産党が勝利した。[[1949w:949年|949年]][[w:10月1日|10月1日]]に毛沢東が[[w:中華人民共和国|中華人民共和国]]の成立を宣言した。内戦に敗れた中国国民党は[[w:台湾|台湾]]に撤退し、引き続き現在にいたるまで中華民国と名乗っているが、国家承認している国は30ヶ国程度である。
 
===中華人民共和国===