「高等学校日本史B/開国」の版間の差分
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薩摩藩では、藩主の父である島津久光が公武合体論を支持し、1862年には上洛して藩内の急進的な尊皇攘夷派を弾圧した('''寺田屋事件''')。そして勅使・大原重徳(おおはらしげとみ)を奉じて江戸に下り、幕府に対して政治改革を要求した。幕府はこれに応じて、一橋慶喜を'''将軍後見職'''に、松平慶永を'''政治総裁職'''に任命し、参勤交代を緩和した('''文久の改革''')。この帰途、薩摩藩の行列をイギリス人が横切り、薩摩藩士がそのイギリス人を殺傷する事件が起こっている('''生麦事件''')。
島津久光が去ったあとの朝廷は、長州藩が主導権を握り、将軍を上洛させて孝明天皇の攘夷祈願のための賀茂社行幸に従わせ、幕府に対して攘夷を実行するように強く要求した。
これら尊皇攘夷派の動きに対して、1863年8月18日、薩摩藩と会津藩は、公武合体派の公家と協力して長州藩と'''三条実美'''(さねとみ)ら7名の公家を京都から追放した('''八月十八日の政変'''、'''文久の政変''')。
翌1864年7月、'''新撰組
これを理由に、幕府は長州藩征討の詔を奉じて1984年7月に軍を起こした('''第一次長州征討'''、'''第一次長州征伐''')。この頃、長州への報復の機をうかがってたイギリス・フランス・オランダ・アメリカなどの列国が連合艦隊を編制して下関を砲撃して、下関側の砲台を占領した('''四国艦隊下関砲台占領事件''')。この結果、長州藩は尊攘派にかわって幕府恭順派が主導権をにぎり、戦闘が起こる前に、長州藩は幕府に降伏した。外国からの攻撃を受けて長州藩は攘夷が不可能であることを悟り、以降開国論が主流となった。
▲いっぽう薩摩藩はこれより前の1863年に、生麦事件の報復として1863年にイギリス軍艦に攻撃されて薩摩は敗北していた('''薩英戦争''')。
== 薩長の連携 ==
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