「中学受験社会/歴史」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
Marcus Cyron (トーク | 投稿記録) M (GR) File renamed: File:Bush Dalai Lama.jpg → File:President George W. Bush and the 14th Dalai Lama at the Whitehouse in 2001.jpg Criterion 2 (meaningless or ambiguous name) - shortened, this is not the discription, just the title! |
→旧石器時代と縄文時代: 査読は諦めた。現段階では最も長いページ。 タグ: 2017年版ソースエディター |
||
3 行
== {{ruby|旧石器時代|きゅうせっきじだい}}と{{ruby|縄文時代|じょうもんじだい}} - 大昔のくらしとクニの誕生 ==
=== {{ruby|氷河期|ひょうがき}} - 1万年前のくらし ===
おおむかし、 (具体的には1万年くらい前) までは、地球は'''{{ruby|氷河期|ひょうがき}}'''と言って、今よりも冷えていたのです。その結果、海水面は今よりも低く、ユーラシア大陸と日本は陸続きだったのです。そのため、大陸から陸上動物が日本にやってきました。
[[File:Sinomegaceros yabei - National Museum of Nature and Science, Tokyo - DSC06925.JPG|thumb|left|200px|オオツノシカ{{riby|骨格標本|こっかくひょうほん}}]]
その証拠に、ユーラシア大陸で生息していた '''ナウマン象''' や '''オオツノ鹿''' や '''マンモス''' などの {{ruby|化石|かせき}}が、日本列島でも発見されています。
古い時代の物が発掘される場所を '''{{ruby|遺跡|いせき}}''' と言います。長野県の {{ruby|[[w:野尻湖遺跡|野尻湖遺跡]]|のじりこいせき}} などから、ナウマン象の化石が見つかっています。
これらの動物達と同じくらいの時期か、しばらくあとに、人間もやってきたと考えられています。それが日本人の{{ruby|[[wikt:祖先|祖先]]|そせん}}です。
{{clear}}
=== {{ruby|旧石器時代|きゅうせっきじだい}} ===
[[ファイル:JapanesePaleolithic VariousChippedStoneTools.jpg|サムネイル|石同士を打って作った打製石器]][[File:National park stone tools.jpg|thumb|440px|外国での石器の例]]
'''{{ruby|石器|せっき}}'''といって、石をくだいて とがらせた物や、石をみがいて つくった物が、見つかっています。おそらく、石器は動物の狩りをしたり、野菜や果物をとったりするときなどに、利用されたのだろうと考えられています。
石を打ち砕いて作ったと思われる石器を'''<span style="color:red">{{ruby|打製石器|だせいせっき}}'''</span>と言います。打製石器を多く使っていた時代を '''{{ruby|旧石器時代|きゅうせっきじだい}}''' と言います。この旧石器時代は、後述する縄文時代よりも、さらに古い時代です。縄文時代の石器には、旧石器時代とは違い、{{ruby|磨製石器|ませいせっき}}という、石同士を磨き合わせて作った石器があります。旧石器時代には、まだ磨製石器はありません。
==== {{ruby|岩宿遺跡|いわじゅくいせき}} ====
[[ファイル:ObsidianOregon.jpg|thumb|250px|アメリカ合衆国オレゴン州レイク郡で採取された黒耀石]]
群馬県の '''岩宿遺跡''' からは、一万年以上前にできた地層から打製石器のかけらが見つかっています。岩宿遺跡の石器は、{{ruby|相沢忠宏|あいざわ ただひろ}}という青年により1946年に発見されました。
相沢により、群馬県の関東ローム層の地層から、石器のような{{ruby|黒耀石|こくようせき}}の かけら が発見されます。相沢は、この破片を大学に調査してもらおうと思い、明治大学に石の破片の調査を依頼しました(※ 学校名の「明治大学」は、おぼえなくて良い)。学者の調査で、この遺跡が一万年以上前の遺跡であることが分かり、日本に旧石器時代があったことが証明されます。
=== {{ruby|縄文時代|じょうもんじだい}} ===
[[File:Jomon Vessel with Flame-like Ornamentation, attributed provenance Umataka, Nagaoka-shi, Niigata, Jomon period, 3000-2000 BC - Tokyo National Museum - DSC05620.JPG|thumb|250px|縄文土器]]
地球の氷河期から数千年たつと、氷河期が終わり、地球は暖かくなり、海面は上昇し、日本列島は海に周囲を囲まれた島になりました。
このころ、日本列島に住んでいる人々は、土器 (土器) を作りだしました。その土器に縄の模様がついているので、この土器は {{ruby|'''縄文土器'''|じょうもんどき}} と呼ばれます。
今から約1万6,500年前 (紀元前145世紀) から、今から約3,000年前 (紀元前10世紀) あたりまでの時代を、{{ruby|<span style="color:red">'''縄文時代'''</span>|じょうもんじだい}}と言います。
「{{ruby|世紀|せいき}}」とは、100年ごとに区切って、年を数える単位です。イエス・キリストが生まれた西暦1年から始まります。例えば、西暦2001年から西暦2100年までを21世紀と言います。西暦1901年から西暦2000年までが20世紀です。西暦1年から西暦100年までが1世紀です。西暦1年より前の年が {{ruby|'''紀元前'''|きげんぜん}} です。縄文時代の紀元前145世紀が今から何年前かを数えると、今は西暦2000 (21「世紀」として) 年代<!-- 更新願います -->(この数字は正しいとは限りません。現代は{{CURRENTYEAR}}年です。)なので、 14500+2000=16500 となって、約1万6,500年前になるわけです。
[[File:Yoshinogari-iseki tateanashiki-juukyo.JPG|thumb|250px|right|弥生時代の竪穴式住居 (復元、吉野ヶ里遺跡) 。]]
縄文時代の人の、家の住居は、{{ruby|'''たて穴式住居'''|たてあなしきじゅうきょ}} (竪穴式住居) といって、地面に穴をほりさげたあとに、柱を立てて草ぶきの屋根をかけただけの住居にすんでいました。{{ruby|住居|じゅうきょ}}とは、家 (の建物) のことです。
[[File:Kasori midden preserve north.jpg|thumb|200px|{{ruby|加曽利貝塚|かそりかいづか}}の北貝層断面]]
縄文人の{{ruby|集落|しゅうらく}}があったと考えられる場所からは、貝がらがたくさんでてきます。この貝がらが多くある場所を <span style="color:red">'''{{ruby|貝塚|かいづか}}'''</span> と言います。
前述しましたが、縄文時代の石器には、打製石器の他に、石同士で表面を磨き合わせて作った {{ruby|<span style="color:red">'''磨製石器'''</span>|ませいせっき}} が見つかっています。磨製石器は、石の{{ruby|槍先|やりさき}}や、石の矢じり、{{ruby|斧|おの}}などに使われていました。
動物の骨でつくった <span style="color:red">'''{{ruby|骨角器|こっかくき}}'''</span> という{{ruby|刃物|はもの}}も、みつかっています。{{ruby|釣り針|つりばり}}や もり (水中の魚を突き刺す武器) などに使用されたと考えられています。
[[Image:JomonStatue.JPG|thumb|right|200px|亀ヶ岡遺跡で出土した土偶]]
縄文時代の遺跡から、{{ruby|<span style="color:red">'''土偶'''</span>|どぐう}}という、女性のような形の、土を焼きかためた人形が見つかる場合があります。土偶 (どぐう) は、食料が増えることを祈ったり (いのったり) 、女性の安産 (あんざん) をいのったものだと考えられていますが、本当なのかは不明です。
有名な貝塚として、{{ruby|大森|おおもり}}貝塚が知られています。明治時代にアメリカ人のモースが大森貝塚を発見しました。この大森貝塚の発見がきっかけとなり、日本各地で貝塚の調査や発掘が始まりました。それ以外にも、福井県の{{ruby|鳥浜|とりはま}}貝塚や千葉県の{{ruby|加曽利|かそり}}貝塚があります。
==== {{ruby|三内丸山遺跡|さんない まるやま いせき}} ===
[}}ファイル:Reconstructed Pillar Supported Structure.jpg|right|thumb|300px|六本柱建物 (復元) ]]
青森県の '''三内丸山遺跡''' からは、栗の木を、{{ruby|栽培|さいばい}}した形跡が見つかっています。また、多くの土器や石器のかけらも、みつかっています。大型の{{ruby|掘立て柱|ほったてばしら}} の穴も見つかっています。掘立て柱の用途は、まだ分かっていません。ヒスイの玉や、黒曜石で出来た刃物のようなものも見つかっています。ところが、ヒスイはこの地ではとれず、新潟県の{{ruby|糸魚川|いといがわ}}などの他の土地で取れるので、他の地域と{{ruby|交易|こうえき}}があったと考えられています。
この三内丸山遺跡は、縄文時代を知る遺跡として代表的な遺跡です。
{{Clear}}
==== {{ruby|屈葬|くっそう}} ====
[[ファイル:Oguruwa shell mounds-Flexed burial.jpg|屈葬]]
縄文人の死者の骨は、手足を折り曲げて、{{ruby|葬られて|ほうむられて}}いる遺体が多く見つかっています。このような葬り方を{{ruby|屈葬|くっそう}}と言います。この姿勢で葬った理由は、まだ分かっていません。
{{clear}}
=== 弥生時代 ===
:
〜
[[Image:YayoiJar.JPG|right|250px|thumb|弥生式土器
紀元前の5世紀ごろ、ユーラシア大陸の中国
米作りは、まず西日本につたわり、西日本から東日本へと、米作りが広がっていき、東北地方まで広がりました。
この時代の農具
穂から米をとるのに、石包丁
* 弥生式土器
また、このころ、土器は、縄文土器よりも うすくて かたい <span style="color:red">
縄文土器と弥生土器のちがいは、弥生時代のころには、土器をつくる技術が進歩したので、土器の形が かわったのだろう、と考えられています。
* 高床式倉庫
米の保管
高床式倉庫が高いのは、ねずみ などの動物が入りづらくするため、が主な理由だろう、と考えられています。風通しをよくするため、という理由も、あるでしょう。ねずみの害をふせぐという理由の有力な根拠として、地面から床までの柱の、柱のてっぺんに、「かえし」がついていて、動物などが登れないように工夫した高床式倉庫が見つかっています。
<gallery widths=200px heights=200px>
Image:Takayukasikisouko.JPG|高床式倉庫 妻側より
File:Yoshinogari-iseki takayukashiki-souko.JPG|高床式倉庫
</gallery>
160 ⟶ 103行目:
{{clear}}
* 金属器
[[ファイル:DotakuBronzeBellLateYayoi3rdCenturyCE.jpg|thumb|銅鐸
大陸や朝鮮半島から米作りがつたわると共
青銅
「すず」とは、金属の材質
青銅器には、銅剣
<gallery widths=200px heights=200px>
File:Koujindani Remains 03.JPG|銅矛と共に出土した銅鐸
ファイル:YayoiBronzeSpearTip1-2ndCenturyKyushu.jpg|弥生時代の銅矛
</gallery>
180 ⟶ 123行目:
* 登呂遺跡
[[File:2004年08月25日竪02.JPG|thumb|240px|right|登呂遺跡
登呂遺跡
* 吉野ケ里遺跡
[[File:Yoshinogari-iseki zenkei.JPG|thumb|440px|right|吉野ケ里遺跡,遠景]]
佐賀県にある。
まわりを濠
人骨からは矢尻が刺さっているものも見つかっている。これらのことから、人々のあいだで争いがあったことが予想できる。
208 ⟶ 151行目:
==== 『漢書』地理誌 ====
:
〜中国大陸の歴史書に見る日本〜<br>
215 ⟶ 158行目:
その中国大陸の歴史書から、日本のようすも、分かります。
中国大陸の、今の中華人民共和国のあたりに、紀元前1世紀ごろの当時あった帝国の
:
その頃、漢の人は日本を<span style="color:red">
漢書によると、そのころの、日本は、100あまりの国に分かれており、漢の王朝へ、定期的に貢物
日本は、楽浪郡
ここで、中国大陸の漢の話がでたので、すこし、中国大陸の帝国や王朝について、話しておきましょう。
ここでいう「中国」とは、今でいう中華人民共和国 (ちゅうかじんみんきょうわこく) のある場所にあった国
日本国内の広島県や岡山県などの中国地方のことでは、ありませんので、まちがえないでください。
236 ⟶ 179行目:
漢だって、最初からあったわけでは、ありません。
:夏
:殷
:周
:紀元前8世紀に、その周が分裂します。
:秦
:漢
漢は、一度、ほろびます。そのあと、ふたたび、漢の王朝になったので、前漢
:さらに後漢が分裂します。
:三国時代 :多くの諸国の中から有力な勢力が三つ勝ち残った三国時代になります。
三国時代とは、「三国志」などで有名な、魏
三国の中で魏が、もっとも強く、最終的に魏が、三国を統一します。統一したあとの王朝の名は「魏」ではなく、別の名前なのですが、まだ教えません。
254 ⟶ 197行目:
ここまで、国名だけを、まとめると
「殷
殷
}}
後漢の歴史書の『後漢書』
奴
[[File:King of Na gold seal.jpg|260px|thumb|left|金印
[[File:King of Na gold seal imprint 1935.jpg|thumb|right|金印の印文。漢委奴國王印文]]
漢の皇帝の光武帝
金印は、江戸時代の1784年に、今の福岡県の博多湾の志賀島
275 ⟶ 218行目:
=== 日本統一へ ===
==== 邪馬台国 ====
:
* 魏志倭人伝
中国大陸の3世紀ごろの歴史書の
そして、これら30あまりの国をしたがえた <span style="color:red">
倭人伝によると。倭
邪馬台国の場所は、まだ不明です。 (2014年に記述。)
もし、倭人伝の記述どおりの方向に場所を特定しようとすると、九州の南の太平洋の海の上に出てしまいますので、倭人伝の方向の記述が、あてになりません。
邪馬台国の場所の有力な説は、九州北部にあったという説と、奈良県の大和
邪馬台国は、魏に、外交の使いを送ります。
卑弥呼は、魏の皇帝から、
倭人伝によると、卑弥呼の政治は、まじないや占いによるものだそうです。卑弥呼は、宮殿にこもりきりで、人々の前には、ほとんど姿を見せなかったらしいです。卑弥呼の弟が、宮殿に出入りをしていて、卑弥呼からの指示を人々につたえていたらしいです。実務は、弟など、卑弥呼でない人物が行っていたようです。
卑弥呼が死ぬと、大きな墓が作られ、また、100人あまりの奴隷
303 ⟶ 246行目:
身分の差は、人々のあいだに、すでにありました。道端で身分の違う者どうしが出会うと、身分のひくい側のほうが道をゆずったといいます。
服装は、女は
貫頭衣の画像がないので、外部のサイトなどでさがしてください。
また、税
市
== 古墳時代 ==
|