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ページの作成:「'''吉野'''の南朝と'''京都'''の北朝が対立していた。<br> 分裂に伴う動乱の中で古代的諸勢力は完全に没落した。<br> 未開社会か…」
 
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'''吉野'''の南朝と'''京都'''の北朝が対立していた。<br>
{{Wikipedia|南北朝時代 (日本)}}
分裂に伴う動乱の中で古代的諸勢力は完全に没落した。<br>
このページ ([[{{PAGENAME}}]]) では、南北朝時代について解説します。
未開社会から文明社会への分水嶺である。
== 政治 ==
=== 後醍醐天皇 ===
鎌倉時代後期から{{Ruby|[[w:両統迭立|両統迭立]]|りょうとうてつりつ}}という喜ばしからざる状態での皇位の継承が繰り返された。そして、それは[[w:大覚寺統|]と[[w:持明院統|持明院統]]の2つから交互に即位するという形にまで変化し、第96代天皇となった[[w:後醍醐天皇|後醍醐天皇]]は己の子どもを次の天皇として即位させることを望むが、鎌倉幕府は後醍醐天皇の父である後宇多天皇の皇位継承計画 (後醍醐天皇の兄である後二条天皇の子、邦良親王が即位するまでの中継ぎとして後醍醐天皇が天皇となる計画) を実行しようとしていた。そのため後醍醐天皇は幕府などに対して不満を抱く。正中元年に後醍醐天皇の倒幕 (幕府を打倒すること) 計画が露見 (発覚すること) し、側近の日野資朝らが処分される「正中の変」が起こる。このとき、幕府は後醍醐天皇に対して一切の処分を行っていない(当然のことではあるが)。その後も幾度となく倒幕の計画が行われ、寺社勢力と後醍醐天皇は深い関わりを持つようになる。この頃、邦良親王が病で死去すると幕府により持明院統から皇太子がたてられる。元弘元年、再びの倒幕計画が露見し、比叡山に逃れる。そして、幕府勢を引き付けた後、{{Ruby|笠置|かさぎ}}山に逃れ立て籠る。天然の要塞を活かし、一時は優勢だった後醍醐天皇側だが、圧倒的な兵力を誇る幕府勢の前に敗北し隠岐に流される。
 
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