「日本史/中世/南北朝時代」の版間の差分

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このページ ([[{{PAGENAME}}]]) では、南北朝時代について解説します。
== 政治 ==
=== 後醍醐天皇両統迭立 ===
鎌倉時代後期から{{Ruby|[[w:両統迭立|両統迭立]]|りょうとうてつりつ}}という喜ばしからざる状態での皇位の継承が繰り返された。そして、それは[[w:大覚寺統|大覚寺統]]と[[w:持明院統|持明院統]]の2つから交互に即位するという形にまで変化する。
 
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後醍醐天皇は側近をはじめとした同志である悪党 (現在の悪党とは意味合いが異なる) の手助けにより隠岐を脱出、再び挙兵する。これを討つため幕府は足利尊氏 (当時は[[w:足利高氏|高氏]]) を向かわせる。しかし、高氏は後醍醐天皇側につき六波羅探題を攻略した。その後まもなく[[w:新田義貞|新田義貞]]が幕府を滅ぼす。
 
==== 建武の新政と足利高氏 ====
再び即位した後醍醐天皇は[[w:建武の新政|建武の新政]]を始める。ところが、残念ながら思うように進まず、権威は没落してしまった。この頃足利高氏が征夷大将軍になりたいと上奏するが、当然ながら認められず、引き換えに後醍醐天皇の諱である「尊治」から一字をとって「尊氏」と改名した。
 
==== 足利高氏 (尊氏) の謀叛 ====
不満を持った尊氏 (高氏) は後醍醐天皇から離反し追討する新田義貞に打撃を受けるも、九州で力を取り戻し京都を攻める。隠岐脱出の頃からの同志である悪党、楠木正成は尊氏 (高氏) との和睦を進言するも体裁上退けられ正成は義貞と共に足利勢を討つよう命じられる。しかし、湊川の戦いで敗北し正成は討ち取られる。足利勢が上洛すると後醍醐天皇は比叡山に逃れる。この後和睦するが、和睦の条件として三種の神器を求められる。そこで後醍醐天皇側は相手が朝廷と関係がないことを使って偽物の三種の神器を渡す。
 
==== 吉野朝廷 ====
京都を逃れた後醍醐天皇は吉野に新たな朝廷を開く。足利尊氏 (高氏) も偽物の三種の神器を根拠に足利幕府 (以降「幕府」は足利政権の室町幕府を指す) に有利な朝廷を京都で開き持明院統の天皇をたてる。京都と吉野はそれぞれ南北の関係にあるので、幕府がたてた京都の朝廷を「北朝」、後醍醐天皇が開いた吉野の朝廷を「南朝」という。再び京都へ戻ることを夢見ていた後醍醐天皇だったが、延元4年、崩御する。南朝の天皇は後村上天皇が継ぐ。尊氏 (高氏) も晩年は後醍醐天皇と対立したことを後悔し後醍醐天皇の死後京都に天竜寺を開く。
京都を逃れた後醍醐天皇は吉野に新たな朝廷を開く。
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== 関連項目 ==
 
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