「高等学校古典B/漢文/侵官之害」の版間の差分
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できれば人物の「韓非」とテクストの『韓非子』を区別したほうがよい。 |
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{{ruby|越権行為|えっけんこうい}}は君主を無視して反乱などをすることにつながりかねない。だから、たとえ臣下が良かれと思ってやった行為であっても、越権行為であるなら、処罰しなければならない、という話である。
この説は{{ruby|韓非
『韓非子』は、法律によって人を支配しなければならないという{{ruby|'''法家'''|ほうか}}の思想書である。
== あらすじ ==
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:官(かん)を侵す(おかす)の害(がい)
{{ruby|昔者|むかし}}、韓の昭侯{{ruby|酔|よ}}ひて{{ruby|寝|い}}ねたり。{{ruby|典冠|てんかん}}の者{{ruby|君|きみ}}の寒きを見るや、故に衣を君の上に加ふ。{{ruby|寝|しん}}より覚めて{{ruby|説|よろこ}}び、左右に問ひて曰はく、「誰か衣を加えし者ぞ
故に明主の臣を{{ruby|蓄|やしな}}ふや、臣は官を超えて功有るを得ず、{{ruby|言|げん}}を{{ruby|陳|の}}べて当たらざるを得ず。官を超ゆれば則ち{{ruby|死|ころ}}され、当たらざれば則ち罪せらる。業を其の官に守り、言ふ所の者貞ならば、則ち群臣は朋党して相為すを得ず。
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== 儒家と法家の対比 ==
法家の思想は「君主は、人民への愛情ではなく、法律によって、人民を統治するべきである」「法律を徹底するため、規則に反する者は、刑罰などで、きびしく罰するべきである」などのように厳格な法の適用によって国を治める思想である。『韓非子』はその理論を
仁義などの道徳の優位と教育の意義を説いた儒家(じゅか)の思想とは、法家は対立している。そして、儒教的な考え方では、君子が道徳的になれば、民衆の多くも道徳的になり、政治は上手くゆくだろう、と考えるのが一般的である。
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韓非子は性悪説を説いた儒家の荀子に思想を学んだ。しかし、韓非子は、素朴な儒教的な考え方を否定する。儒家の説く道徳などというのは、しょせんは個人的な好き嫌いであり、社会のことを考えて作られた法律を超越するものではない、と。
== 韓非
韓非
「人の心が善人か悪人かという難問は、政治の実務にとっては大したことはなく、法律を徹底させるということこそが、君主にとっては大切である。」というのが、韓非子の考えである。
韓非
また、民衆にとっての道徳と、君主にとっての道徳とは違うのである、と韓非
たとえば、世間一般での、母親による子どもへの愛情について、韓非
また、君主のありかたについて、韓非
法律を犯した者の事情も考えずに、法律を犯した者を処罰することは、人情味は無いなどとして民衆などには憎まれるが、しかし、そのように例外を認めずに処罰をすることによって、法律を侵す者が減り、結果的には社会を安定させることができるのである。これこそが君主にとっての道徳であると、韓非
=== 影響 ===
戦国時代の秦王・政(のちに秦の始皇帝)は、この韓非子の時代と同じ
== 参考文献 ==▼
*『要説 諸子百家・文章』日栄社、昭和45年▼
== 脚注 ==
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▲== 参考文献 ==
▲*『要説 諸子百家・文章』日栄社、昭和45年
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