「中学受験社会/歴史」の版間の差分

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椎楽 (トーク | 投稿記録)
→‎戦後の改革と日本国憲法: 「ほとんどそのまま」ではない。重大な修正がなされている。憲法成立史を勉強すべし。
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→‎大東亜共栄圏: 大東亜会議とか普通は出ない。
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日本は、資源がすくなかったので、資源を確保するために、東南アジアに日本軍が進出しました。日本軍は、東南アジア現地のオランダ軍やイギリス軍などと戦いました。
 
そして、東南アジアを欧米の支配から解放し、東南アジアにアジア諸民族たち自身の勢力地である <big>大東亜共栄圏</big>(だいとうあきょうえいけん) を設立するという目的ことが、戦争の表向きの目的として、かかげられました。そのため、最初は日本軍が来たことを歓迎する人も多かったのですが、日本は占領した土地でも資源をうばったり、強制労働をさせたり、日本に協力的ではない人をきびしく取りしまったりしました。やがて、そうした政策への反発から日本の支配に反対する運動がおこりました。
このとき、日本は、表向きの戦争の正当化の理由として、ヨーロッパ諸国による東南アジアでの植民地支配の打倒と、現地住民の支配からの解放の理念をかかげて、戦争をしました。
 
*==== 朝鮮半島や台湾などでは ====
日本は占領した土地には、きびしい統治をした。だが、現地の独立運動の指導者たちはヨーロッパの支配からの独立を目指していたので、きびしい日本の統治にもたえぬき、日本に協力をした。
いっぽう、第二次世界大戦が始まったころ、朝鮮では、朝鮮の人々の名前を、日本風の名前に改めることを勧める政策が行われました。この政策を'''創始改名'''(そうし かいめい)といいます。
 
:(のちに、第二次大戦では日本が負けますが、するとイギリス軍やフランス軍やオランダ軍は、ふたたび東南アジアを支配しようと、もどってきました。だが、現地の先住民たちはヨーロッパ人の軍とたたかい、次々と東南アジアで国が独立していきます。)
 
二次大戦中の話にもどる。
 
1943年には、東京で大東亜会議(だいとうあ かいぎ)をひらき、タイ、満州、ビルマ、フィリピン、インドなどの代表をあつめ、欧米からの植民地支配の解放などを宣言した大東亜共同宣言(だいとうあ きょうどうせんげん)をしました。
(「大東亜戦争」という呼び名は、この宣言よりも1941年に前に決まっている。)
 
そして、東南アジアを欧米の支配から解放し、東南アジアにアジア諸民族たち自身の勢力地である <big>大東亜共栄圏</big>(だいとうあきょうえいけん) を設立するという目的が、戦争の表向きの目的として、かかげられました。
 
第二次大戦のあと、最終的に、東南アジアは欧米の植民地支配から独立するので、東南アジアの解放については目的を達成したことになる。
 
 
* 朝鮮半島や台湾などでは
いっぽう、第二次世界大戦が始まって、朝鮮では、朝鮮の人々の名前を、日本風の名前に改める政策が行われました。この政策を'''創始改名'''(そうし かいめい)といいます。
 
また、日本国内で、徴兵のため、それまで日本で働いていた日本人の労働者が足りなくなったので、朝鮮半島や台湾から、朝鮮の人々を労働者として日本に連れてきて、日本の工場や鉱山などで働かせました。きびしい労働だったと言われています。
 
戦争の終わりごろには、朝鮮や台湾でも徴兵を行い、朝鮮や台湾の人々、日本軍の兵士として、戦場に送られました。
 
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=== 日本の敗戦へ ===
第二次大戦の戦況は連合国に有利にすすみ、枢軸国のドイツ・イタリア・日本は不利になっていった。まず、1943年にはイタリアが降伏した。