「中学受験社会/歴史」の版間の差分

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== 日中戦争 ==
1937年7月、北京(ペキン)にある盧溝橋(ろこうきょう)という地区で訓練中の日本軍に、何者からか、数発の銃弾(じゅうだん)が日本軍へと打ち込まれ、戦闘になりました。この事件を<big>盧溝橋事件</big>(ろこうきょう じけん)といいます。
=== 盧溝橋事件 ===
1937年7月7日と8日に、北京(ペキン)にある盧溝橋(ろこうきょう)という地区で訓練中の日本軍に、何者からか、数発の銃弾(じゅうだん)が日本軍へと打ち込まれた事件があった。
 
そして、これを口実に日本は軍をさらに送り、事実上の戦争になりましたが、当時は「北支事変」(後に{{ruby|支那|しな}}<ref>当時、日本は中国のことをこのように呼んでいました。'''現在は中国をけいべつするために使う言葉とされているので使用しません'''。</ref>事変)と呼びました。もし日本が宣戦布告をすると、日本は、中立国のアメリカからの輸入をできなくなるので、「戦争」とは言わずに「事変」という用語をもちいたのです(中国側も同様の理由で「事変」という語を用いませんでした)。この戦闘をもって、<big>日中戦争</big>(にっちゅうせんそう)の始まりと考える日本の学説や教科書もあります。
この発砲の事件を<big>盧溝橋事件</big>(ろこうきょう じけん)と言う。
 
これを日本軍は中国軍の発砲(はっぽう)だと考えたので、戦闘準備を始めるが、まだ攻撃の許可をもらっていないので中国軍への攻撃は中止した。このとき、中国軍が日本軍の戦争開始と誤解して、日本軍を攻撃したので、日本軍と中国軍とが戦闘した事件。この戦闘を 北支事変(ほくしじへん) と言う。
 
はたして誰が発砲したかについては、いまだに不明(2014年の今でも。)である。
 
現地では、ひとまず7月11日に日中の現地軍どうしで、ひとまず停戦協定が結ばれた。
 
 
だが、25日には中国軍が日本軍を攻撃する廊坊事件(ろうぼう じけん)が起こり、26日にも中国軍が日本軍を攻撃する広安門事件(こうあんもん じけん)が起きたので、日本政府は中国が停戦協定をやぶったと考え、ついに7月28日に日本軍による攻撃が始まり、本格的な戦争になっていく。
 
この7月28日ごろを日中戦争の開始時期と考える学説もある。
 
 
もし日本が宣戦布告をすると、日本は、中立国のアメリカからの輸入をできなくなるので、「戦争」とは言わずに「事変」という用語をもちいている。中国側も同様の理由で「事変」という語を用いなかった。
 
事変とはいうものの、北支事変は事実上の戦争なので、この北支事変の戦闘をもって、<big>日中戦争</big>(にっちゅうせんそう)の始まりと考える日本の学説や教科書もある。
 
なぜ盧溝橋に日本軍がいたかというと、義和団の乱の事後処理について1901年にむすばれた北京議定書に基づいて、日本軍などの外国軍が、この盧溝橋の周辺に駐留(ちゅうりゅう)していた。
 
 
* 最初に誰が発砲したか?
盧溝橋事件で、最初に誰が発砲したかの説には、多くの説がある。
 
中国の国民党軍による警備上の発砲を日本側が攻撃と勘違いしたという説もあれば、中国軍が意図的に日本軍をねらって挑発(ちょうはつ)したという説もあるし、日本軍の自作自演説もある。
 
他の説には、中国には国民党と対立していた共産党という軍閥勢力があるのだが、その共産党の陰謀(いんぼう)による、日本軍と国民党軍との戦争をねらった発砲だという説もある。ほかにも、ソビエト連邦のソ連共産党のスパイによる陰謀説もある。
 
真相は不明である。真相を調べるのは大人の歴史研究者の仕事であり、小学生には無理なので、真相については気にしないほうが良い。
 
 
とりあえず、小学生がおぼえておくべきことは、
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:日本軍は、これを中国軍による攻撃と考え、兵を動かした。
:結果、結果的には、日本軍と中国軍との戦闘がおきたこと。
 
これをおぼえておけば、よいであろう。
 
小学校の段階では、「盧溝橋事件をきっかけに、日中戦争が起きた」とおぼえておけば、じゅうぶんだろう。
 
=== 第二次上海事変 ===
* 通州事件(つうしゅう じけん)
:(※ 通州事件は、ふつうテストには出ません。)
盧溝橋事件の三週間後の1937年7月29日に起きた事件。
北京(ペキン)の東側にある通州(つうしゅう)で、中国人の保安隊による、日本人の居留民(きょりゅうみん)や日本人の守備隊など日本人 約260名への虐殺事件があった。
 
この事件もあって、日本の世論は中国にたいして、かなり強硬的になっていく。
 
7月25日の廊坊事件(ろうぼう じけん)や、26日の広安門事件(こうあんもん じけん)は、日本の軍隊に対しての攻撃事件である。だが、この通州事件は、民間人への攻撃事件であった。
 
 
* 大山大尉殺害事件(おおやまたいい さつがいじけん)
:(※ 大山大尉殺害事件は、ふつうテストには出ません。)
1937年の8月には、上海(シャンハイ)で大山勇夫(おおやま いさお)海軍中尉が殺害される事件が起きた。この事件を大山大尉殺害事件(おおやまたいい さつがいじけん)などと言う(死後、海軍大尉に特進)。
 
 
日本はこの大山事件を中国軍のしわざだと考え(真相は不明)、日本軍は1937年の8月に上海に海軍陸戦隊を派兵して戦闘する。この戦闘を 第二次上海事変(だいにじ シャンハイじへん) と言う。あるいは、上海戦(シャンハイせん)とも言う。
 
宣戦布告をしてないので「事変」というが、じっさいには、戦争の開始と同じなので、現代では、この上海事変をきっかけに、日中戦争(にっちゅうせんそう)が始まったと考える学説もある。いっぽう盧溝橋事件を日中戦争の始めと考える学説もある。
 
:※ 「日中戦争のはじまりの時期を、いつと考えるか?」には、盧溝橋事件と考えるか上海戦と考えるか、その間の事件に対する報復攻撃の時期と考えるか、多くの説がある。このような事情があるので、日中戦争の開始の時期には、あまり、こだわる必要がない。もしテストに細かく日中戦争の開始時期を問う教育者がいれば、その教員の知識がうたがわれるだろう。
 
もし日本が宣戦布告をすると、日本は、中立国のアメリカからの輸入をできなくなるので、「戦争」とは言わずに「事変」という用語をもちいている。
 
 
勘違い(かんちがい)されやすいが、上海事変は、てっきり盧溝橋事件の報復攻撃で、'''陸軍が'''南京まで攻め落としたのだろ、と勘違いされやすい。だが、じつは、上海戦は、'''海軍が'''大山大尉殺害事件などの報復として、おこなった戦争である。
 
 
=== 南京攻略戦 ===
[[File:Second Sino-Japanese War WW2.png|thumb|600px|1940年の日中戦争での戦場。 (赤いところが日本が占領した場所。)]]
その後、上海でも闘が始まり、日本と中国と4ヶ月ほど長続全面的な戦争に入っていしたます。そして12月には、日本軍は中華民国の首都の南京を攻略しました。(おそらく日本は首都の南京をおとせば蒋介石が降伏するだろう、と考えたのだろう。)国民党の支配者の蒋介石は、日本軍の南京の攻略の前に、すでに南京から脱出しており、日中戦争は、つづいた。
国民党の支配者の蒋介石は、日本軍の南京の攻略の前に、すでに南京から脱出しており、日中戦争は、つづいた。
首都の南京を日本が陥落(かんらく)しても、中華民国は首都を重慶(じゅうけい)などにうつし、日中戦争はつづいた。
 
南京攻略のとき、一説では、日本軍が中国の非戦闘員の民間人や捕虜多数殺害しましたという学説があり、れは1937年12月から1938年はじごろまで殺害事件を <big>南京事件</big>(ナンキンじけん) <ref>南京{{ruby|虐殺|ぎゃくさつ}}事件言うもいいます被害にあった規模は様々お、同名研究があります。こ「南京事件」が1913年や1927は1938初めごろもあは欧米のマスコミで報道され、日本軍にたいす非難、こ高まりました。当時1913年や1927年日本南京事件マスコミは軍によってコントロールされていたため、報道されることはなく、大多数の日本人は戦後にこの事件であるについて知りました。</ref>といいます
 
この日中戦争では、ソビエトやアメリカ、イギリス、フランスは、中国に軍事物資などを援助していて、中国側を支持していた。アメリカは、おもに中国の国民党を援助した。アメリカは援助にとどまり、まだ、戦闘には参加していない。
1937年12月の南京事件については、いろんな説がある。
 
{{コラム|南京事件|
南京事件で殺害された中国人については、一般住民が殺されたとする意見がある。(現代(2014年)の中国政府の主張)
<br>ほかの説では、住民の服を着た中国軍の便衣兵(べんいへい)とよばれるゲリラ部隊が掃討(そうとう)されただけであるという意見もある。ほかにも、いろんな説があり、真相は不明である。
 
一般住民が殺されたという意見では、30万人が殺されたという説もあるが、日本の学者に多い意見では30万人という数字は大げさであり、たとえ住民虐殺があったとしても、もっと少ない人数だろう、という意見が強い。
 
なぜなら南京戦の陥落直後の南京での人口が、国際委員会による南京の住民の人口の推計で、およそ20万人だろう、という発表があり、さらに陥落から1ヶ月後に安全委員会が南京の人口を計ったところ25万人にふえている。
 
なので、30万人の住民殺害は原理的に不可能なので誇張であり、たとえ住民殺害の事件があっても、数百名〜数千名ぐらいか、多く見つもっても中国軍人と中国住民の死者数を合わせても数万人の人数だろう、という説が日本では強い。
 
とにかく住民が殺害されたという人数には、数百人から30万人まで、いろんな説がある。
 
 
なお、ゲリラ部隊については、ゲリラ部隊があると、ゲリラとまちがえられた民間人に危害がくわわるという観点から、国際法(こくさいほう)ではゲリラは保護されないということが、1899年に国際的に決まったハーグ陸戦条約(ハーグ りくせん じょうやく)に明記されている。なので、戦争時にゲリラを殺害するのは正当な戦闘行為である。
 
:(※ ハーグ陸戦条約は、ふつうテストには出ません。)
 
ただしゲリラと間違えられた住民にも、公正な裁判を受けることで無実をうったえる権利がある。
 
とにかく、ゲリラ活動は、民間人をまきこんでしまうという危険があるので、ハーグ条約で禁止されているのである。
 
このような、いろんな事情があるので、くわしい被害者の人数については、テストでは出題されないだろう。もし、「南京事件でころされた人数を書け」という問題を出題する教員がいれば、教員の見識が、うたがわれるだろう。
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この日中戦争では、ソビエトやアメリカ、イギリス、フランスは、中国に軍事物資などを援助していて、中国側を支持していた。
この段階では、まだ、アメリカ兵と日本兵との戦争は起きていない。
 
アメリカは、おもに中国の国民党を援助した。アメリカは援助にとどまり、まだ、戦闘には参加していない。
いっぽう、ソビエトは、おもに中国の共産党を援助した。
 
南京攻略後には、日中のあいだでドイツを仲介(ちゅうかい)にした和平のための和平工作もあったが、日中両国の両国内での強硬派の意見もあり和平はまとまらず、日中戦争はつづいていく。
 
南京攻略後には、日中のあいだでドイツを仲介(ちゅうかい)にした和平のための和平工作もあったが(「トラウトマン工作」という)、日中両国の両国内での強硬派の意見もあり和平はまもまらずに、日中戦争はつづいていく。
 
=== 日本の戦時体制 ===
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Image:Advance All Japanese people are 100 million balls of fire.JPG|「進め一億火の玉だ」
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<references />
 
== 第二次世界大戦と太平洋戦争 ==