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→‎日清戦争と日露戦争: 条約改正は日清・日露戦争と同等の節にした方がいいだろう。
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→‎開国(かいこく)と戊辰戦争(ぼしんせんそう): 章節構成を大規模変更。幕末と日清日露を一括しちゃいかんでしょ。
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薩摩藩は、以前から琉球が行っていた中国との貿易をつづけさせ、その貿易の利益を薩摩藩が手に入れました。
 
== 江戸幕府の終わり ==
== 開国(かいこく)と戊辰戦争(ぼしんせんそう) ==
=== 外国船の出没(しゅつぼつ) ===
[[ファイル:Adam Kirillovich Laksman.jpg|thumb|left|200px|ロシアのラクスマン]]
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{{clear}}
=== 明治維新と自由民権運動 ===
〜<big>西洋に学べ</big>〜<br>
[[ファイル:Meiji Emperor.jpg|thumb|300px|明治天皇(めいじ てんのう)]]
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==== 富国強兵(ふこくきょうへい) ====
===== 軍制の改革 =====
政府は、欧米の軍制に習った改革として、1873年に<big>徴兵令</big>(ちょうへいれい)を出し、満20才以上の男子に、3年の間、兵士になる兵役(へいえき)の義務を課した。この徴兵制は、江戸時代の武士だけに軍事が独占されていた時代とちがい、徴兵制では農村などの平民にも兵役の義務がかされ、士族・平民の区別なく徴兵をされた。
 
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===== 地租改正(ちそかいせい) =====
江戸時代の税は米など農産物であり、農作物の不作・凶作などによって税の収入がへるので、政府にとっては不安定な制度であった。
このため、政府は税の制度をあらため、地主に現金で税をおさめさせるようにしました。土地にかかる税の金額は、土地の値段の3%と決められ、この地価の3%を土地の税である「地租」(ちそ)として地主が現金ではらう制度になりました。土地の値段を「地価」(ちか)と言います。つまり、地主のおさめる地租(ちそ)の金額は、地価(ちか)の3%の金額になりました。
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体育や家庭科などの教科も作られ、それらの教科書が作られた。
}}
 
 
 
* 『学問のすすめ』
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また、物事をきちんと考えられるようになるためには、きちんとした内容の本などを読み、学問をするのが良いことを述べた。
 
==== 文明開化(ぶんめい かいか) ====
福沢諭吉(ふくざわ ゆきち)は『学問のすすめ』を出版し、勉強をしないと、単純な仕事しかできないので地位のひくい仕事にしかつけずに貧しい生活しか出来なくなる、というふうなことを福沢は説いた。
 
:※ 『学問のすすめ』は、民衆の平等の理想をもとめた本では、ありません。<br>『学問のすすめ』は、勉強をしないと安い賃金(ちんぎん)の仕事にしかつけないので、貧しく(まずしく)なり不平等な目にあう、と説いた本です。もし「民主主義」という言葉をつかって本の内容を説明するならば、民主主義では学問をしないと貧しくなる、と説いた本です。
 
 
まず、福沢は『学問のすすめ』の出だし(でだし)の冒頭(ぼうとう)の文では、
:<big>「天(てん)は 人(ひと)の上(うえ)に 人を造らず(つくらず) 人の下(した)に 人を造らず と いへり」</big>
という文があり、
人は生まれながらにして平等である、という内容である、アメリカ合衆国の建国(けんこく)した当時の独立宣言(どくりつせんげん)の内容を紹介した。
 
 
そのうえで、現実の社会は、理想とはちがって不平等であることを福沢は説明した。
 
冒頭文のしばらくあとには、きびしい現実を紹介した説明が続いている。現代語に訳して紹介すると、
 
:「けれども世の中を見渡すと、かしこい人と愚かな人、貧しい人と金持ちの人、身分の高い人と低い人とがある。<br>その原因は何だろう?<br>原因は明らかだ。<br>学問を勉強したかどうかの差だ。<br><br>かしこい人と愚かな人との差は、学ぶと学ばざるとによって出来る。」
 
 
福沢は民主主義(みんしゅしゅぎ)を紹介し、そのゆえ、政府の能力の高さは国民の能力の高さによって決まると説き、そのため国民は学問を学んで自らの知識を高めなければならない、と説いた。
もし、国民が馬鹿だったら、民主主義の国では政府も馬鹿になってしまう、と福沢は説き、これからの時代は、政治が悪くなっても政治家だけの無能(むのう)ではなく、国民にも学問をしなかったという無能の責任がある、と注意をした。
 
 
 
そして福沢は、『学問のすすめ』や、他の本などで、実学や、算数や理科や地理学などの大切さをとなえた。
いっぽうで古文や漢文などの文学だけを学問とみなそうとする態度の学者を、福沢は批判した。
学問は、なるべく世の中の役に立てるべきである、というふうなことを、福沢は説いた。
 
学校教科書には、福沢は「人は生まれながら平等である」と主張したなどと書かれているが<ref>『小学社会 6年 上』、日本文教出版、検定年:平成22年、p.95</ref>、これまでの説明を読めば分かるように、学校教科書の説明は、正確には、まちがいである。
(※ 教科書をかばうなら、教科書には字数の制限があるので、説明しきれないことが多いのである。)
 
このように、与えられた学校教科書だけしか勉強しようとしない者とか、受験参考書だけしか勉強しようとしない者は、文部省や学校などに都合がいい、うその情報を与えられることになる。
 
だから、現在の世の中でも、自分から学問をするべきなのだろう。
 
===== 文明開化(ぶんめい かいか) =====
明治のはじめごろ、政府はちょんまげをやめてもよいという許可を人々に出し、散髪脱刀例(さんぱつだっとう)を1871年に出した。:「ざんぎり頭を たたいてみれば 文明開化の音がする」などと、ちまたで言われていた。
 
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===== 征韓論(せいかんろん) =====
日本は開国したが、隣国の朝鮮は開国した日本を、欧米の圧力(あつりょく)に負けた格下(かくした)の国の日本とみなし、日本との国交を朝鮮は中止した。
 
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日本の初めての軍歌である『抜刀隊』(ばっとうたい)の歌詞は、この西南戦争の様子をうたったものであり、西郷軍による切り込み攻撃と、対する警視隊の抜刀隊との戦いを歌ったものであり、その歌詞に、お雇い外国人であるフランス人作曲家のシャルル・ルルーが曲をつけた歌である。
 
=== 自由民権運動 ===
 
 
[[ファイル:Itagaki Taisuke young.jpg|thumb|200px|板垣退助(いたがき たいすけ)。1880年ごろ(44才ごろ)]]
いっぽう、征韓論にやぶれて政府を去っていた板垣退助(いたがき たいすけ)らは、西南戦争の前から、言論活動によって、政府への批判を主張した。
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このような理由もあり、政府は、すぐには民撰議院を開かず、10年以内に国会(こっかい)を開くことを国民に約束した 国会設立の詔(こっかいせつりつ の みことのり) を1881年にだしました。そして、10年後の1890年に、ついに国会が開かれました。
 
=== 大日本帝国憲法の成立 ===
この1890年の国会の開設にそなえて、政府は、議会制度に必要になる<big>憲法</big>(けんぽう、英語:Constitution コンスティチューション)を作りました。
1890年の国会の開設にそなえて、政府は、議会制度に必要になる<big>憲法</big>(けんぽう、英語:Constitution コンスティチューション)を作りました。
 
 
明治時代の日本国の憲法を、<big>大日本帝国憲法</big>(だいにっぽんていこく けんぽう)と言います。現代(2014年に本文を記述)の「日本国憲法」とは、べつの法律です。また、この憲法のあとのころから日本の国名の言いかたで「日本」のほかに<big>「大日本帝国」</big>(だいにっぽんていこく、だいにほんていこく)という言いかたも、されるようになりました。
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伊藤は、日本の憲法の、天皇についての条文は、ドイツが日本と同じように皇帝をもっているので、ドイツの憲法を手本にするのが良いだろう、と考えたようです。
 
なお、イギリスには、じつは、文章でかかれた憲法典がありません。
 
 
大日本帝国憲法の内容では、まず、天皇が日本を統治すると定められた。そして実際の政治は、大臣(だいじん)が行うとされた。
つまり、日本を統治するのは、藩閥ではなく、華族でもなく、天皇である、ということである。
 
また、憲法では、軍隊は天皇(てんのう)が統帥(とうすい)するものとされた。宣戦や講和も天皇の権限になった。
 
 
また、憲法では、軍隊は天皇(てんのう)が統率(とうそつ)するものとされた。宣戦や講和も天皇の権限になった。
つまり、政治家が勝手に戦争を初めたり講和したりするのを禁止している。
このように軍隊を統率する権限を 統帥権(とうすいけん) と言います。天皇が統帥権(とうすいけん)を持っています。
 
外国と条約をむすぶのも、天皇の権限である。
 
 
国民の権利は、法律の範囲内での自由や権利が、保証された。ただし、現在(西暦2014年に記述)の日本の権利とくらべたら、当時の権利は国民にとっては制限の多いものであった。
 
 
国民には兵役(へいえき)の義務があることが憲法にふくまれていた。
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==== 帝国議会 ====
 
* 議会
憲法発布の翌年1890年には、国会での議員を選ぶための選挙が行われた。つづいて国会である<big>帝国議会</big>(ていこくぎかい)が同1890年に開かれた。
 
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*==== 発展的事項:大津事件(おおつ じけん)====
[[ファイル:Prince Nicolas at Nagasaki.jpg|thumb|350px|ニコライ皇太子。1891年、長崎に訪問時のニコライ皇太子(左の車上の人物がニコライ。)]]
1891年、ロシアの皇太子のニコライ2世(ロシア語: Николай II, ラテン文字表記: Nicholai II)が日本を訪問し、日本政府はニコライを接待していた。当時の日本は近代化したばかりの小国であり、いっぽう、ロシアは大国であった。
 
皇太子ニコライが滋賀県の大津町(おおつちょう、現在:大津市)を訪問中に、警備の仕事だったはずの日本人の巡査の一人にサーベルで切りつけられるという事件が、起きた。犯人は、その場で取り押さえられ、捕まった。
 
犯人は、その場で取り押さえられ、捕まった。
 
事件の、あまりの重大さに、明治天皇が緊急にニコライ皇太子を見舞う事態となった。
 
 
この事件で、日本の政府はロシアの報復(ほうふく)をおそれて、犯人を死刑にするように要求した。
[[ファイル:Iken Kojima.jpg|thumb|250px|児島惟謙(こじま これかた)]]
しかし、当時の最高裁判所である大審院(だいしんいん)の院長である児島惟謙(こじま これかた)は、日本の刑法の法律にもとづくと、この場合は死刑は不可能であると主張し、無期懲役(むきちょうえき)にするべきと主張とした。
 
 
政府は、なやんだ。法律をまもるべきなのか? それともロシアに報復されないようにして国の安全をまもるべきなのか?
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日本の新聞などの世論は、これに注目した。日本だけでなく、欧米も、この事件の判決に関心をもった。
 
 
結局、日本の裁判所は、法律にしたがって、犯人を無期懲役にすることに決まった。
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日本の法律にもとづいた判決は、当時の欧米からも日本の近代化の進展ぶりを示すもの、というふうに高く評価をされた。
 
===== 朝鮮との国交 =====
1871年に日本は清国と条約を結び、日清修好条規(にっしん しゅうこうじょうき)がむすばれた。
5年後の1876年には朝鮮との国交の条約である日朝修好条規(にっちょう しゅうこうじょうき)がむすばれた。
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この条約の前年1875年に、日本の軍艦が朝鮮から砲撃を受けた事件である江華島事件(こうかとう じけん)があり、この事件の原因は朝鮮の近くで無断で測量を行った日本に落ち度があったが、日本はこの事件の被害をもとに交渉を有利にすすめた。
 
=== 日清戦争と日露戦争 ===
==== 日清戦争 ====
==== {{ruby|甲午農民戦争 |こうごのうみんせんそう}}と日清戦争 ====
===== 東学党の乱(とうがくとう の らん) =====
朝鮮では、改革の負担や開国の負担は、農民にまわされた。税は重税になり、農民の生活貧困にますます苦しくなった。このような状況によって、朝鮮の政権や開国への不満が農民たちに高まり、大規模な反乱が1894年に起きた。
 
減税や、腐敗した役人の追放や、日本をふくむ外国の排除を求める反乱である、<big>甲午農民戦争</big>(こうご のうみん せんそう)が1894年に起きたのである。
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戦争は、日本の勝利で翌年1895年に終わった。
 
==== 下関条約 ====
清は軍事力の高い強国だと思われていたのですが、戦争が始まってみると、陸戦でも海戦でも日本の勝利でした。日清戦争の前の清は「眠れる獅子」(ねむれる しし)と諸外国から恐れられていました。獅子とはライオンのことです。しかし、日清戦争の敗北により、清の実力が大したことがないことがわかると、ヨーロッパ諸国は次々と中国大陸での勢力拡大にのり出します。
 
一方、清では日本の明治維新にならって、欧米の政治制度を取り入れようとしました。そして、諸外国のろこつな中国への干渉は中国国内での民族意識を高めるきっかけとなりました。
 
===== 下関条約 =====
[[画像:Location-of-Liaodong-Peninsula.png|thumb|200px|遼東半島の位置]]
[[File:《马关条约》签字时的情景.jpg|thumb|right|300px|none|下関条約の調印の様子。 向かって左に着席するのが日本の伊藤全権、右が清国の李全権]]
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日清戦争後の台湾の領有によって、日本が台湾の統治を行い、日本の投資や開発によって台湾の近代化は行われていく。
 
===== 三国干渉(さんごく かんしょう) =====
ロシアは、日本の勢力が中国にのびることで、ロシアに日本の勢力が近づくことをおそれました。
ロシアは、ドイツとフランスと組んで、日本に遼東半島を清に返させる要求を出すように、日本に要求をだします。
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にがい胆(きも)を嘗(な)めることで、屈辱を忘れないようにする(嘗胆)、ということである。
 
==== 中国の分割 ====
 
清は軍事力の高い強国だと思われていたのですが、戦争が始まってみると、陸戦でも海戦でも日本の勝利でした。日清戦争の前の清は「眠れる獅子」(ねむれる しし)と諸外国から恐れられていました。獅子とはライオンのことです。しかし、日清戦争の敗北により、清の実力が大したことがないことがわかると、ヨーロッパ諸国は次々と中国大陸での勢力拡大にのり出します。ロシアがリャオトン半島を借りる権利を清から手に入れ、ロシア風の建物が立ち並んでいったりと、まるでリャオトン半島がロシアの領土のようになっていきます。
さて、清が戦争に負けたことで、清が弱いことがヨーロッパに知られると、ヨーロッパは清に対して強気の交渉に出て、清から多くの利権を手に入れます。
 
やがて、ロシアがリャオトン半島を借りる権利を清から手に入れ、ロシア風の建物が立ち並んでいったりと、まるでリャオトン半島がロシアの領土のようになっていきます。
 
イギリスやドイツ・フランスも、清から土地の権利などの利権を手に入れていきます。
 
一方、清では日本の明治維新にならって、欧米の政治制度を取り入れようとしました。そして、諸外国のろこつな中国への干渉は中国国内での民族意識を高めるきっかけとなりました。
 
*===== 義和団の乱(ぎわだん の らん) =====
このようなことから、清の民衆のあいだに、ヨーロッパに対して反発する感情が高まっていきます。
1899年には、義和団(ぎわだん)という宗教団体が欧米の勢力をしりぞけようとする暴動(ぼうどう)を起こします。この暴動を 義和団の乱(ぎわだん の らん) と言います。義和団は、「扶清滅洋」(ふしん めつよう)という言葉を、運動の標語にしていました。「扶清滅洋」の
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==== 日露戦争 ====
===== 日英同盟 =====
義和団の事件のあとも、ロシアは兵力をひかず、ロシア軍は満州にいつづけました。そして、朝鮮半島や清に勢力をひろげようとする南下政策(なんか せいさく)をロシアは目指しました。
 
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ロシアの強硬な方針に、イギリスは危機感を感じた。そして、イギリスは、日本と同盟をした。これが日英同盟である。
 
===== 日露戦争 =====
1904年、日本は開戦にふみきった。
 
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(以下省略。雑誌『明星』(みょうじょう)、明治37年(1904年)9月号『恋衣』(晶子第四歌集)所収)
 
===== 韓国併合 =====
日露戦争の勝利によって、大韓帝国でのロシアでの影響力が無くなり、韓国での日本の影響力や支配が強まる。
 
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さて、併合により、名が「朝鮮」(ちょうせん)に変えられ、韓国統監府は、 「朝鮮総督府」(ちょうせんそうとくふ) にかわった。
 
==== 条約改正 ====
[[ファイル:Munemitsu Mutsu 2.jpg|thumb|150px|陸奥宗光(むつ むねみつ)]]
[[ファイル:Jutaro Komura.jpg|thumb|150px|小村寿太郎(こむら じゅたろう)]]
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=== 明治の経済の変化と文===
=== 財閥 ===
明治のはじめごろ、国は工業をさかんにするため、官営の工場を経営していた。しかし、政府にとっては財政の負担だった。また、政府が工場の経営をすると、民間の工場の仕事をうばっていることにも、なってしまう。
なので、政府は官営工場の民間への払い下げを1880年代に行った。
 
この払い下げをうけた会社が、三井(みつい)・三菱(みつびし)・古河(ふるかわ)などであった。これら企業はいろいろな業種の会社を持つ大会社であになていきます。そして、{{ruby|財閥|ざいばつ}}と呼ばれるようになります
 
=== 日本の産業革命 ===
イギリスから輸入した紡績機(ぼうせきき)をもとに、生糸を生産。イギリスの紡績機は、蒸気機関を動力として用いる、最新の紡績機だった。日本でも、紡績機を改良していった。
明治時代の日本の重要な輸出品は生糸や綿糸でした。それを大量に作るために、イギリスから輸入した紡績機(ぼうせきき)を導入します。イギリスの紡績機は、蒸気機関を動力として用いる、最新の紡績機でした。日本でも、紡績機を改良していった。このようにして、繊維工業を中心に、日本の軽工業は発展していきました。
 
原料の綿などは、併合した朝鮮や、獲得した満州などから安い値段のものが輸入され、そのため日本の農家は打撃を受けました。
 
八幡製鉄所(やはたせいてつじょ)の操業が1901年に北九州で始まります。八幡製鉄所は、日清戦争の賠償金をもとにたてられましたが、日本での重工業の発展のきっかけになりました。
生糸(きいと)や綿(めん)製品は、日本の輸出品になっていった。
繊維工業を中心に、日本の軽工業は発展していった。
 
一方で、自分の土地をもたない小作人が増えました。
 
 
八幡製鉄所(やはたせいてつじょ)の創業が1901年に北九州で始まった。
 
この八幡製鉄所が、日本での重工業の発展の、きっかけになった。八幡製鉄所は、日清戦争の賠償金をもとに、たてられた。
 
 
 
小作人が増えた。
理由はいくつかあるが、よくある説は・・・
:1:#税が地租改正によって、現金で払う税金になり、現金収入が少ない農民が借金などで土地を手放さざるをえなくなっていった。
:2:1880#1880年代ごろ、農作物の値段が急落して、土地を手放さざるをえない農民が増えた。
:3:#朝鮮や清国との貿易で、安い農産物が日本に入ってきて、日本の農家は競争にさらされ経営が苦しくなった。
など。
 
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1925年の『女工哀史』(じょこう あいし)という細井和喜蔵(ほそいわきぞう)という機械工(きかいこう)の労働者が自らの体験をもとに書いた本に、1925年と時代は少しあとの時代だが、このような女工たちのつらい状況が書かれている。
 
==== 足尾銅山(あしお どうざん)の鉱毒(こうどく)事件 ====
 
=== 足尾銅山(あしお どうざん)の鉱毒(こうどく)事件 ===
[[Image:Ashio Copper Mine circa 1895.JPG|thumb|250px|1895年頃の足尾鉱山]]
栃木県にある足尾銅山では、明治時代ごろには、全国の生産の3分の1の銅を生産していた。
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だが、直訴のことが新聞などに報道され、この足尾銅山の鉱毒事件が世間に広く知られた。
 
鉱石は、ほりだしたままでは、さまざまな不純物をふくんでいるので、使えないのである。なので、不純物をとりのぞくため、さまざまな薬品の液体を鉱石にくわえていく。
このため、排水が出てくる。
この排水の安全化の処理が不十分なままであった。
 
なお、1892年の古在 由直(こざい よしなお)らによる調査結果によれば、鉱毒の主成分は銅の化合物、亜酸化鉄、硫酸である。
 
:なお、昭和時代や平成時代の調査では、周辺からカドミウムや鉛(なまり)などの毒性の高い物質も、検出(けんしゅつ)されているので、これらの物質も鉱毒にふくまれていた可能性がある。
 
=== 明治の学問や文化の変化 ===
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{{コラム|中国大陸での辛亥(しんがい)革命|
 
1911年、中国大陸の四川省で、鉄道の国有化および、その鉄道の外国への借款に対する反対の暴動が起きた。(鉄道借款が国権を売り渡す行為と批判された。)
 
そして各地で反乱が起こり、独立宣言が起きた。
これが辛亥革命(しんがい かくめい)である。
 
[[ファイル:Sunyatsen1.jpg|thumb|150px|孫文(そんぶん)]]
当時、中国人の革命運動家として有名であった孫文(そんぶん)は、この辛亥(しんがい)革命を起こしてない。革命当時、孫分はアメリカに滞在しており、アメリカで革命の知らせを聞いた。孫文は、アメリカのほかにも、日本に滞在していて中国での革命のための運動をしていた時期もある。中国大陸では、清国の王朝を倒そうとする革命運動は、当然、取り締まりを受けていたので、なので日本やアメリカで孫文は中国での革命のための運動を行っていたのであった。孫文が日本にいたころは、日本の国粋主義の思想家の頭山満(とうやま みつる)などから支援を受けていた。
 
 
さて、辛亥革命は、「革命」といっても、実質的には各地の軍隊が反乱をおこして満州族の支配する清王朝から独立しただけであり、政治理念の一致した運動ではなかった。
 
 
革命後、孫文は中国大陸に帰国した。
 
 
そして、革命運動の代表者が決まっていなかったので、臨時政府の代表者として孫文が 大総統(だいそうとう) に選ばれた。
 
孫文の主張は、民族の独立をかかげる「民族」主義、そして「民権」主義、庶民の生活の向上である「民生」の安定をかかげた、3つの民に関する考えからなる <big>三民主義</big>(さんみん しゅぎ) を唱えていた。
 
 
そして孫文たちは、<big>中華民国</big>(ちゅうか みんこく)の建国を宣言した。中華民国の首都は南京(ナンキン)に決まった。
 
まだ、清の皇帝は生きのこっている。清の宮殿なども、残っている。
 
しかも孫文は、臨時の代表者にすぎない。
 
[[ファイル:Ysk2.jpg|thumb|200px|袁世凱(えん せいがい)]]
実際に中華民国で権力をにぎったのは、かつて清国の政治家であり、軍を掌握していた袁世凱(えん せいがい)だった。孫文には軍隊を管理する能力がなく、孫文に大した実権はなかった。
 
袁世凱は、清の皇帝を退位させ、そして袁世凱が最高権力者の大総統になった。皇帝が退位したことにより、清の王朝は終了した。
 
辛亥革命は、「革命」とはいうものの、はやい話が、権力が皇帝から袁世凱へと移動したというだけであった。
 
袁世凱は、独裁政治を始めた。
 
けっきょく、孫文は日本に亡命することになった。
 
1915年に、袁世凱は病死した。
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}}
 
 
== 第一次世界大戦 ==