「中学受験社会/歴史」の版間の差分

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この時代のころ、ヨーロッパでは、海路での貿易が、さかんであった。なぜなら15世紀に入ってから西アジアではトルコ系のオスマン帝国が成長し、ヨーロッパは貿易ルートをオスマン帝国にさえぎられるようになっていた。このため陸路(りくろ)をさけた貿易が、さかんになった。
 
 
鉄砲の伝来は戦いの仕方を、大きく変えた。
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〜<big>織田信長・豊臣秀吉・徳川家康</big>〜<br>
:(おだのぶなが・とよとみひでよし・とくがわいえやす)
 
多くの大名がおり、各地で争いがおきているので、その全てを解説する時間はない。なので、代表的な人物を中心に取り上げる。
 
* 桶狭間の戦い(おけはざま の たたかい)
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戦国時代には各地に大名がおり、多くの大名どうしが争っていた。1560年以降から、まず、尾張(おわり、愛知県にある)の <big>織田信長</big>(おだ のぶなが) が勢力を伸ばし始める。きっかけは、1560年に、<big>桶狭間の戦い</big>(おけはざま の たたかい)で駿河(するが)の大名である今川義元(いまがわ よしもと)の軍に尾張が攻めこまれたが、今川義元を織田らの軍が討ち取り、今川義元は死亡する。このため、今川軍は負ける。
 
桶狭間の戦い以降、信長は西へと勢力を伸ばしていく。1568年には、足利義昭(あしかが よしあき)を支援して京都に入り、義昭が室町幕府の第15代将軍になります。しかし、信長と足利義昭はやがて対立するようになります。そして、義昭の呼びかけに応じて、さまざまな勢力が信長と戦うようになります。最初は信長も苦しい戦いを強いられていましたが、各勢力を個別に倒していきます。そして、1573年に義昭は京都から追放され、室町幕府は滅びました。
今川討ち死にのいきさつは、信長軍の兵が少数の軍勢で今川の本陣を奇襲し、今川義元を討ち取った。
 
 
{{コラム|発展的事項: 徳川家康の独立|
:この桶狭間の戦いを期(き)に、今川氏に支配されていた三河(みかわ)の松平元康(まつだいら もとやす)および彼の家臣が今川から独立し、松平元康は松平家康(まつだいら いえやす)と改名する。(元康の「元」の字は、義元の「元」の字と同じである。)松平元康は、後の時代に、征夷大将軍になる <big>徳川家康</big>(とくがわ いえやす) である。しかし、このころの松平家康は、まだ一介の戦国大名であった。
 
:桶狭間の戦いから2年後の1562年に、家康は織田信長と同盟をむすぶ。これが 清洲同盟(きよす どうめい) です。「清洲」(きよす)とは尾張(おわり)にある信長の居城の清州城(きよす じょう)のことです。なお、1582年の清洲会議(きよす かいぎ)とは、別の出来事です。1582年の清洲会議は、1582年に信長が死んだので後継者(こうけいしゃ)を決めるための会議です。
 
(発展的事項、おわり。)
}}
 
 
なお、豊臣秀吉(とよとみひでよし)は、桶狭間の当時は織田信長の家臣であり、当時の名は 木下藤吉郎(きのした とうきちろう) と名乗っていました。のちの1570年のころに名を変え、木下藤吉郎から羽柴秀吉(はしば ひでよし)に名前を変えています。
 
 
桶狭間の戦い以降、信長は西へと勢力を伸ばしていく。1568年には、足利義昭(あしかが よしあき)を支援して京都に入った。義昭が、室町幕府の第15代将軍になる。
 
1569年、キリスト教の宣教師のルイス・フロイスと初めて出会い、彼にキリスト教の布教を許可します。信長本人はキリスト教の信者ではなく、信長の狙いは宣教師のもたらす情報などが狙いだとか、あるいは当時に信長と敵対していた仏教勢力への対策などと、一般に言われています。
 
 
 
{{コラム|発展的事項:  信長包囲網(のぶながほういもう)|
:義昭が、第15代将軍になる。後に信長に実権をうばわれることをおそれた義昭が1571年ごろに各地の大名と密かに協力して御内書(ごないしょ)を送る。
 
:御内書は、上杉謙信(うえすぎけんしん)や毛利輝元(もうりてるもと)、本願寺光佐(ほんがんじこうさ)や武田信玄(たけだしんげん)など、各地の大名に御内書が下された。これは現代(2014年に記述)では信長包囲網(のぶながほういもう)と一般には呼ばれている。この包囲網に、さらに、かねてから信長と対立していた大名なども加わる。
 
:その後、各地の大名たちと織田軍は戦争になるが、織田軍は生き延びる。
 
(発展的事項「信長包囲網」、おわり。)
}}
 
 
:1570年には、信長に敵対する浅井・朝倉の連合軍と戦争になり姉川の戦いが起きるが、この浅井・朝倉連合軍をやぶる。
:1571年には仏教勢力の延暦寺が浅井・朝倉に味方してことなどから、比叡山延暦寺(ひえいざん えんりゃくじ)を焼き討ちにする。いわゆる<big>「延暦寺の焼き打ち」</big>をした。
 
 
義昭は1573年に京都の槇島城(まきしまじょう)で挙兵したが失敗し槇島城を追われてしまい、織田により義昭は京都から追放された。 (※「槇島城」については、おぼえなくてよい。)
 
これによって、室町幕府は、ほろんだ。
 
1569年、キリスト教の宣教師のルイス・フロイスと初めて出会い、彼にキリスト教の布教を許可します。信長本人はキリスト教の信者ではなく、信長の狙いは宣教師のもたらす情報などが狙いだとか、あるいは当時に信長と敵対していた仏教勢力への対策などと、一般に言われています。
 
* 長篠の戦い
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1575年に織田・徳川の同盟と、対する敵は、甲斐(かい)の大名の武田勝頼(たけだ かつより)らの戦争である <big>長篠の戦い</big>(ながしののたたかい) が三河(みかわ)で起きる。この戦いでは、織田・徳川らの鉄砲隊の活躍により、織田が勝ち、武田は負ける。
武田の戦法は騎馬兵による従来の戦法であった。
 
 
* 安土城(あづちじょう)
1576年、近江(おうみ、滋賀県)に城を築かせ(きずかせ)、天守(てんしゅかく)を持つ <big>'''安土城</big>'''(あづちじょう) を築かせる。
 
安土城の城下町では、次に説明する楽市楽座(らくいち らくざ)などの新しい政策が行われた。
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そして、商業を活発にするための信長による一連の規制(きせい)の撤廃(てっぱい)などの商業の振興策(しんこうさく)を、<big>楽市楽座</big>(らくいち らくざ)といいます。
 
 
==== 本能寺の変 ====
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このとき、家臣の<big>明智光秀</big>(あけち みつひで)が反逆をして、この本能寺で信長および信長の子の織田信忠(おだ のぶただ)たちは死亡します。
信長は当初は応戦していたといいますが、やがて敵の兵数を知るとけを覚悟し、家臣の森蘭丸(もり らんまる)らに寺に火を放たせ、信長は自刃(じじん)して自殺したと言います。
 
この1582年の本能寺での一連の事件が<big>本能寺の変</big>(ほんのうじのへん) です。
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もちろん、当時にはパンツなんてありませんので、実際には、いちごパンツなんて、はいていません。語呂合わせのためのジョークです。
 
 
<big>信長は、天下統一をしていません。</big>
天下統一ならず、信長は死亡します。
のちに、戦国時代の天下統一をした人は、羽柴秀吉です。
 
=== 羽柴秀吉の台頭(たいとう) ===
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その後、信長の家来だった柴田勝家と戦い、賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)で秀吉軍は柴田軍を倒します。
 
 
このようにして、しだいに秀吉の地位は高まっていき、信長の領地を受け継いでいきます。
 
 
 
1583年に秀吉は、大阪にあった石山本願寺(いしやまほんがんじ)の跡地(あとち)に<big>大阪城</big>(おおさかじょう)を築かせ、この大阪城を本拠地(ほんきょち)にした。
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1685年、羽柴秀吉は朝廷から <big>関白</big>(かんぱく) の称号を、もらいます。
1586年、羽柴秀吉は朝廷から<big>豊臣</big>(とよとみ)の姓(せい)をもらい、<big>'''豊臣秀吉</big>'''(とよとみ(の) ひでよし)と名乗る許可を得ます。
 
 
 
そして1590年には、秀吉に従わなかった北条(ほうじょう)氏の治める関東の小田原(おだわら)を攻め、北条氏政(ほうじょううじまさ)を滅ぼします。
 
同1590年、秀吉に従っていなかった東北の伊達(だて)氏など東北の大名は、秀吉にしたがい、これで<big>'''秀吉が天下統一をなした'''</big>
 
=== 秀吉の政策 ===
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検地帳によって耕作者が、はっきりしたので、農民は田畑を持つ権利を認められたが、同時に年貢(ねんぐ)をおさめる義務をおうことになり、土地を勝手に離れる(はなれる)ことができなくなった。
また、これで、かつての荘園のように土地の権利がはっきりしない土地がなくなった。
 
 
 
* <big>刀狩</big>(かたながり)
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このような検地や刀狩の結果、農民と武士との中間的な立場の人間がいなくなり、農民と武士との身分のちがいが、はっきりとしました。このようなことを兵農分離(へいのう ぶんり)といいます。
 
*キリスト教の禁止
 
キリスト教の禁止
 
豊臣秀吉は、キリスト教を禁止します。
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この戦争を日本の呼び方で、<big>朝鮮出兵</big>(ちょうせん しゅっぺい) とか <big>朝鮮侵略</big>(ちょうせん しんりゃく)と いいます。
 
ここで気をつけてほしいのは、朝鮮の最初の目的は、けっして朝鮮半島への征服ではなく、中国大陸への征服です。名前が「朝鮮出兵」とか「朝鮮」侵略なので、てっきり朝鮮の領土などをねらった戦争だろうとマチガイやすいかもしれませんが、秀吉が最初に狙ったのは明(みん)の征服であって朝鮮の領土ではありません。
 
なぜ秀吉が明への侵略戦争を考えたはじめたかについては、学者でも、まだ理由が解明されていません。仮説(かせつ)は多くありますが、学者の研究途中です。
 
 
なお、20世紀の後の時代の戦争で朝鮮戦争(ちょうせんせんそう)という戦争がありますが、朝鮮出兵とは別の戦争です。朝鮮戦争は北朝鮮と韓国戦争との戦争です。名前が似ていますが、まちがえないでください。
 
秀吉の朝鮮出兵は2度、ありますが、最初の1回目の出兵は1592年にあり 文禄の役(ぶんろくのえき) と言い、2回目の出兵は1597年にあり 慶長の役(けいちょうのえき) と言います。
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[[image:TurtleShip1795.jpg|thumb|left|250px|『行録』などの記述をそのまま絵にしたもので、亀甲船の'''想像図'''。少なくとも18世紀以後に描かれたものであり、史料価値はほとんどない。]]
1回目の朝鮮出兵である文禄の役 では、朝鮮の各地や海上で日本軍は朝鮮軍と戦いましたが、朝鮮の水軍(すいぐん)の軍人である李舜臣(日本語よみ :り しゅんしん、  韓国語よみ :イ スンシン)がひきいる亀甲船(きっこうせん)水軍に、日本は苦戦しました、といわれています。また明からの援軍が朝鮮に協力したので、日本の戦況は不利になっていきました。
 
朝鮮の民衆も朝鮮軍に協力したが、このため、朝鮮軍だけでなく朝鮮の民衆も戦争に巻き込まれた。
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戦国時代では、手柄をしめすために敵の将の首を切り取り送るのが一般だったのです。階級の低い敵兵の場合には首ではなく鼻などを切り取っていました。
 
 
 
1598年に日本国内で秀吉が病死し、朝鮮出兵は終わります。
 
* 朝鮮出兵の結果
::・**日本の諸大名などからの豊臣氏への信用が弱まり、のちに、豊臣氏が没落していくキッカケの一つになる。
::・**朝鮮に、大きな被害を与えた。
::・**戦争で消耗した明(みん)の力も弱まる。
::・**朝鮮の陶器(とうき)の文化が日本に伝わる。朝鮮人の捕虜が日本に連行されたり、物品の略奪などを通して。佐賀県の有田焼(ありたやき)、鹿児島県の薩摩焼(さつまやき)、山口県の萩焼(はぎやき)など。今では、その地方の特産品の一つになっている。
 
::・**朝鮮の活字(かつじ)技術が日本に伝わる。
::・朝鮮の陶器(とうき)の文化が日本に伝わる。朝鮮人の捕虜が日本に連行されたり、物品の略奪などを通して。佐賀県の有田焼(ありたやき)、鹿児島県の薩摩焼(さつまやき)、山口県の萩焼(はぎやき)など。今では、その地方の特産品の一つになっている。
::・朝鮮の活字(かつじ)技術が日本に伝わる。
 
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