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== 太古~平安時代 ==
*[[中学受験社会/歴史/上巻]]
 
== 平安時代~江戸時代 ==
*[[中学受験社会/歴史/中巻]]
 
== 明治時代~現代 ==
*[[中学受験社会/歴史/下巻]]
 
 
 
 
== 明治維新 ==
〜<big>西洋に学べ</big>〜<br>
[[ファイル:Meiji Emperor.jpg|thumb|300px|明治天皇(めいじ てんのう)]]
いっぽう、戊辰戦争のころ、新政府は大名などに対して政治の方針をしめすため、<big>五箇条の御誓文</big>(ごかじょう の ごせいもん)を、<big>明治天皇</big>(めいじてんのう)より出させた。
 
内容は、現代風に訳すと・・・
:・政治は、会議で広く意見を聞いて政治を行う。
::原文 :広く(ひろく)会議(かいぎ)を興し(おこし)、万機公論(ばんき こうろん)に決す(けっす)べし。
 
:・身分の上下によらず、みんなで心を合わせて、政治や仕事を行っていく。
::原文 :上下心を一にして、さかんに経綸を行うべし。
 
:・みんなの願いを実現するようにしよう。
::原文 :官武(かんぶ)一途(いっと)庶民にいたるまで、おのおのその志(こころざし)を遂げ(とげ)、人心(じんしん)をして倦(う)まざらしめんことを要す。
 
:・昔からの、わるいしきたりは、やめよう。
::原文 :旧来(きゅうらい)の陋習(ろうしゅう)を破り、天地(てんち)の公道(こうどう)に基づく(もとづく)べし。
 
:・知識を外国からも学んでいって、日本国を発展させていこう。
::原文 :智識(ちしき)を世界に求め、大いに(おおいに)皇基(こうき)を振起(しんき)すべし。
 
このように、あたらしい日本の政治では、なるべく日本国民みんなで政治を行おう、という政治を行う方針であることを、大名などに示した(しめした)。
 
 
庶民に向けては<big>五榜の掲示</big>(ごぼうのけいじ)を出したが、内容はキリスト教を禁止したり、一揆を禁止したりと、江戸時代と変わらない内容であった。キリスト教の禁止については、外国からの反発により、1873年には解禁になった。
 
五榜の掲示の原文は、長いので原文紹介は省略する。
 
 
1868年、新政府は「江戸」(えど)の地名を「東京」(とうきょう)に改めた。年号を「明治」(めいじ)に、あらためた。1869年に、新政府は東京を首都にした。明治天皇は京都から東京にうつった。
 
年号が明治の時代を<big>明治時代</big>(めいじ じだい)という。
幕末から明治時代はじめごろに行われる一連の改革を<big>明治維新</big>(めいじ いしん)という。
 
 
江戸幕府が無くなったあとも、藩の領地は大名がおさめつづけていた。新政府は1869年に、大名のおさめていた藩の領地を国の領地にさせました。これを版籍奉還(はんせきほうかん)という。
 
1871年には、明治政府は、藩をやめさせて、かわりに県・府をおきました。府知事(ふちじ)や県令(けんれい)には政府の任命した人間がつきました。
 
これを<big>廃藩置県</big>(はいはん ちけん)と言います。
 
 
江戸時代の身分制度はなくなり、農民や町民は平民になりました。平民は、江戸時代とは違い、職業や済む場所は変われるようになりました。苗字を平民も持てるようになりました。
 
武士は士族(しぞく)と変わりました。公家と大名は華族(かぞく)となりました。
 
また、えた・ひにんなどの差別をされていた人たちも平民としてあつかう、解放令(かいほうれい)が出された。
 
 
武士は、江戸時代に持っていた特権を失いました。
 
 
=== 富国強兵(ふこくきょうへい) ===
==== 軍制の改革 ====
政府は、欧米の軍制に習った改革として、1873年に<big>徴兵令</big>(ちょうへいれい)を出し、満20才以上の男子に、3年の間、兵士になる兵役(へいえき)の義務を課した。この徴兵制は、江戸時代の武士だけに軍事が独占されていた時代とちがい、徴兵制では農村などの平民にも兵役の義務がかされ、士族・平民の区別なく徴兵をされた。
 
江戸時代は、武器を持てるのは武士だけの特権だった。このため、徴兵制によって軍事の特権のなくなった士族からは不満があった。また、農村などの平民からも、労働力をうばわれるので、農村からの不満があった。
 
政府の徴兵制を主導者は、江戸時代の武士のような個人的な武芸にたよる戦闘では、近代的な兵器をあやつる戦闘では勝てないことを知っていて、このため徴兵制を導入した。
 
ただし、徴兵制には、当初は免除規定がいくつかあって、一家の主(あるじ)や、長男や、徴兵のかわりに代金を払った者などは徴兵を免除された。だが、のちに免除規定は廃止され1889年には、ほぼ全ての20才以上男子が徴兵された。
 
 
 
==== 地租改正(ちそかいせい) ====
江戸時代の税は米など農産物であり、農作物の不作・凶作などによって税の収入がへるので、政府にとっては不安定な制度であった。
このため、政府は税の制度をあらため、地主に現金で税をおさめさせるようにしました。土地にかかる税の金額は、土地の値段の3%と決められ、この地価の3%を土地の税である「地租」(ちそ)として地主が現金ではらう制度になりました。土地の値段を「地価」(ちか)と言います。つまり、地主のおさめる地租(ちそ)の金額は、地価(ちか)の3%の金額になりました。
 
この制度の前提として、土地を個人が所有できるように、土地の制度が、すでに改正されていました。また、農地に、何を作付けするかは、農地の所有者の自由になっていました。
 
この改正の結果、地域によっては税の負担が増えた地域もあり、一揆が起きた地域もあった。のちの1877年には地租の税率(ぜいりつ)が引き下げられ、3%から2.5%へと税率が引き下げられました。
 
 
国家の近代化や、軍隊の近代化には、これまでに説明した改革の他にも改革が必要であり、多くの改革がなされた。
 
* 官営工場(かんえい こうじょう)
[[File:上州富岡製糸場之図 PNG.png|thumb|700px|当時の富岡製糸場(とみおか せいしじょう)]]
工業の近代化も必要であった。
政府みずから経営する官営(かんえい)の工場を建てた。機械は外国から買った。工場労働者を育成する技師は、外国から、よんできた。
群馬県の<big>富岡製糸場</big>(とみおか せいしじょう)が、官営の工場として有名。富岡製糸場では、フランスから技師を、まねいた。富岡製糸場の働き手には、女性が全国から、あつめられた。
 
 
このような政府の経営する工場を、<big>官営工場</big>(かんえい こうじょう)と言う。このような官営工場を手本に、民間の工業を近代化させたので、官営模範工場(かんえい もはんこうじょう)とも言う。「模範」(もはん)とは手本という言う意味。
 
富岡製紙場で生産された絹は、欧米にも輸出され、「トミオカ=シルク」(Tomioka Silk)などとよばれた。
 
 
* 義務教育(ぎむきょういく)
1872年に、義務教育を国民に受けさせるため、<big>学制</big>(がくせい)を出した。学制の内容は、6才以上の男女に義務教育を受けさせるという内容であった。
しかし、学校の建設費の負担や授業料の負担が大きいので反発があり、また当時の子供は働き手であったので労働力を取られることからも反発があった。
このような理由で就学率(しゅうがくりつ)は低く、実際に学校に通ったのは、一部の子であった。
(就学率とは、学校に通っている者の割合のこと。)
 
明治のはじめは就学率が低かったものの、明治の終わりごろには就学率は高くなり、ほぼ100%の就学率になっていった。
 
 
義務教育の制度は、欧米を手本にした制度であり、主にフランスを手本にしている。フランスの制度が、日本にあわない部分もあったので、のちにアメリカの教育制度を取り入れた教育令(きょういくれい)を1879年に出した。
 
 
{{コラム|義務教育と軍事|
フランスでの義務教育の始めの歴史について言えば、フランスでの民主主義を目指す革命が1789年に起きたきっかけであった。革命によって民主化したフランスは、周辺国の民主化していない国からは危険な国と思われており対立していた。フランスはドイツなどの周辺国と戦うために、軍を発展させる必要があり、そのためには工業の発展や、国民の教育が必要であった。
 
工業を発展させるにも教育を受けた学力の高い労働者が多く必要である。また、軍隊を近代化させるにも、もしも兵士が読み書きをできないと、軍の近代化が出来ない。
 
このようにして教育を受けたフランスの軍はとても強く、また国家に対する忠誠心も高かった。周辺の国の兵士は領主や国王のための戦争をさせられていたが、いっぽうのフランス兵は自らの国の民主主義を守るために戦争にいった。フランスと戦争をした周辺国のドイツなどは、勇敢(ゆうかん)なフランス軍に苦戦をした。
 
フランス以外の国にも以前から教育制度はあったが、戦争でのフランスの強さを知り、ヨーロッパ諸国はフランスを手本に教育を改革していった。
 
明治政府の指導者たちは、このような教育の歴史を知っており、日本の近代化のため、フランスを手本にしたのであろう。
}}
 
 
{{コラム||
学校の教科に関して言えば、理科が教えられるようになった。『小学人身窮理』(しょうがく じんしん きゅうり)などの教科書が使われた。(江戸時代の子供への教育は「読み・書き・そろばん」だった。)「窮理」(きゅうり)とは自然法則を学ぼう、という意味である。
 
また、算数の教育が始まり、漢数字をもちいていた和算にかわり、現在の小学校の算数でならうようなアラビア数字をもちいた洋算(ようさん)が始まった。『筆算題叢』(ひっさんだいそう)などの教科書が使われた。
 
外国の歴史や地理についても教えられるようになり、ヨーロッパの歴史や地理についても教え始め、教科書として『万国地誌略』(ばんこくちしりゃく)や『万国史略』(ばんこくしりゃく)などの教科書が作られ始めた。
 
図画などの美術などの教育も始まり、『小学普通画学本』(しょうがっこう つうがどくほん)が使われた。
 
体育や家庭科などの教科も作られ、それらの教科書が作られた。
}}
 
* 『学問のすすめ』
[[File:Yukichi Fukuzawa.jpg|200px|thumb|福沢諭吉(ふくざわ ゆきち)。明治20年(1887年)頃の肖像]]
西洋の学問を学習する熱が高まっていき、それに応ずる思想も現れた。
 
国を発展させるには、国民の一人ひとりが自分の頭で物事の善悪などを考えられるようになる必要があり、
:「一身(いっしん)独立(どくりつ)して、一国(いっこく)独立(どくりつ)する」
と、福沢は『学問のすヽめ』(がくもんのすすめ)という本を書いて主張した。
 
また、物事をきちんと考えられるようになるためには、きちんとした内容の本などを読み、学問をするのが良いことを述べた。
 
==== 文明開化(ぶんめい かいか) ====
明治のはじめごろ、政府はちょんまげをやめてもよいという許可を人々に出し、散髪脱刀例(さんぱつだっとう)を1871年に出した。:「ざんぎり頭を たたいてみれば 文明開化の音がする」などと、ちまたで言われていた。
 
また、1876年には、刀を持ち歩くのをやめさせるように<big>廃刀令</big>(はいとうれい)が出された。
 
 
東京や横浜、大阪などの大きな町には、ガス灯がつきはじめた。牛肉や豚肉などをたべる習慣がでてきて、牛肉屋や洋食屋が出てきた。江戸時代は、仏教の関係で牛や豚などの4本足の動物の肉を食べるのが禁止されていた。
 
いっぽう、地方の村のようすは、江戸時代と、さほど変わらない様子だった。
 
 
* 郵便(ゆうびん)
飛脚に変わり、1871年に郵便制度が出来た。前島密(まえじまひそか)らによって、郵便の制度が、ととのえられた。数年後には、全国一律の料金制度ができた。
 
 
* 鉄道
1872年には、新橋(しんばし)・横浜(よこはま)間に、日本で最初の鉄道が開通した。
 
 
* 新聞・雑誌の発行
活版印刷の技術は幕末の頃より輸入されていた。明治になって、出版活動がさかんになった。
1870年には、日本で新聞(しんぶん)が最初に出始め、日刊(にっかん)の「横浜毎日新聞」(よこはままいにちしんぶん)が発行された。そのあと、次々とあたらしい新聞が発行されていった。
 
 
* 暦(こよみ)
暦(こよみ)では、江戸までの太陰暦(たいいんれき)をやめて、明治からは太陽暦(たいようれき)に切りかわった。
一週間を7日にすることが決まり、一日が24時間と決まり、日曜日が休日と決まりました。
 
 
==== 征韓論(せいかんろん) ====
日本は開国したが、隣国の朝鮮は開国した日本を、欧米の圧力(あつりょく)に負けた格下(かくした)の国の日本とみなし、日本との国交を朝鮮は中止した。
 
日本の政府の中には、アジアの近代化のためには、日本の軍事力を背景にして強引(ごういん)にでも朝鮮を開国させるべき、という<big>征韓論</big>(せいかんろん)という考えがあり、板垣退助(いたがき たいすけ)や江藤心平(えとう しんぺい)が主張していた。
 
また西郷隆盛(さいごう たかもり)が、みずからが交渉役となって、朝鮮と平和に交渉をすることを西郷は提案していた。
 
欧米の視察から帰国した大久保利通は、朝鮮の早急な開国には反対し、交渉が失敗した場合の日本の安全を考え、早急な朝鮮の開国を目指している西郷や板垣の提案に、大久保利通など政府メンバーの多くは反対した。
大久保の考えは、対外政策をいそぐよりも、まずは国内の近代化をすすめ国力をたくわえるべき、というような考えであった。
 
 
このような経緯から、板垣と西郷と江藤は、政府を去った。
 
 
いっぽう、西郷が政府をさったのと同じころ、士族の間では政府の対して不満が高まっていた。さまざまな改革により武士の特権が剥奪されていったからである。
1874年ごろから九州の各地で、士族による反乱が起きた。1874年に江藤心平らが佐賀で反乱をおこしたが、政府軍によって、鎮圧(ちんあつ)された。江藤は死刑になった。
 
[[File:Battle of Taharazaka.JPG|thumb|300px|西南戦争での、田原坂(たばるざか)の戦い。左が官軍、右が西郷軍(「鹿児島新報田原坂激戦之図」小林永濯(こばやし えいたく)画、明治10年3月)。]]
ほかにも、反乱がおき、このような不平士族たちの指導者として、西郷隆盛がかつぎだされた。西郷も、その不平士族とともに、1877年に大規模な反乱が鹿児島で起きた。この鹿児島での西郷ひきいる反乱が西南戦争(せいなんせんそう)である。
 
だが、政府軍が勝ち、西郷たち反乱軍は負けた。
 
西南戦争の以降、士族の反乱は、なくなった。
 
日本の初めての軍歌である『抜刀隊』(ばっとうたい)の歌詞は、この西南戦争の様子をうたったものであり、西郷軍による切り込み攻撃と、対する警視隊の抜刀隊との戦いを歌ったものであり、その歌詞に、お雇い外国人であるフランス人作曲家のシャルル・ルルーが曲をつけた歌である。
 
=== 自由民権運動 ===
[[ファイル:Itagaki Taisuke young.jpg|thumb|200px|板垣退助(いたがき たいすけ)。1880年ごろ(44才ごろ)]]
いっぽう、征韓論にやぶれて政府を去っていた板垣退助(いたがき たいすけ)らは、西南戦争の前から、言論活動によって、政府への批判を主張した。
 
1874年に、板垣は、政府に対しての求めで、選挙で選ばれた政治家による政治をおこなう民撰議院(みんせんぎいん)を、すぐに設立するように求め、<big>民撰議院設立の建白書</big>(みんせんぎいんせつりつ の けんぱくしょ)を政府に提出しました。
当時の日本の政治には、まだ選挙の制度が無かったので、薩摩藩や長州藩の出身者など明治維新に影響力のあった藩の出身者たちから成りたつ(なりたつ)、少数の政治家によって政治が決まっていた藩閥政治(はんばつ せいじ)だったのです。
 
この民撰議院の設立の要求のように、国民が政治に参加できる社会をもとめる運動を<big>自由民権運動</big>(じゆう みんけんうんどう)と言います。自由民権運動は、はじめのうちは不平士族を中心とした運動だったが、しだいに農民や商工業者などにも支持をされていきます。
 
しかし、1881年のときには、まだ、国会をひらくために必要になる、憲法(けんぽう)などの法律がありませんでした。憲法とは、その国の法律をつくるさいの基本となる考え方を定めたり、法律をつくるときの決まりごとや、国会の決まりごとなどを定めた法律です。
 
国会の決まり事をきめた法律すら、まだ出来てないので、まだ民撰議院をひらくことが出来ません。
 
このような理由もあり、政府は、すぐには民撰議院を開かず、10年以内に国会(こっかい)を開くことを国民に約束した 国会設立の詔(こっかいせつりつ の みことのり) を1881年にだしました。そして、10年後の1890年に、ついに国会が開かれました。
 
=== 大日本帝国憲法の成立 ===
1890年の国会の開設にそなえて、政府は、議会制度に必要になる<big>憲法</big>(けんぽう、英語:Constitution コンスティチューション)を作りました。
 
明治時代の日本国の憲法を、<big>大日本帝国憲法</big>(だいにっぽんていこく けんぽう)と言います。現代(2014年に本文を記述)の「日本国憲法」とは、べつの法律です。また、この憲法のあとのころから日本の国名の言いかたで「日本」のほかに<big>「大日本帝国」</big>(だいにっぽんていこく、だいにほんていこく)という言いかたも、されるようになりました。
 
[[ファイル:Itō Hirobumi.jpg|thumb|left|250px|伊藤博文(いとう ひろぶみ)]]
[[ファイル:Lorenz von Stein.jpg|thumb|200px|ローレンツ・フォン・シュタイン(Lorenz von Stein)]]
明治政府は、伊藤博文(いとう ひろぶみ)らを、ヨーロッパの憲法を調べさせるためヨーロッパに送り、伊藤はイギリスの法学者スペンサーやドイツの有名な法律学者のグナイストから学び、またオーストリアの法律学者のシュタインから憲法学のほか軍事学や教育学などさまざまな学問を学びました。
 
:※ かつて昭和のころ、「伊藤博文はドイツ憲法を手本にした」という学説が主流だったが、どうも、その学説は、やや事実(じじつ)と、ちがうらしい。最新の歴史研究によると、伊藤が学んだスペンサー(イギリスの法学者)が、伊藤に「日本が憲法をつくるなら、日本の伝統にもとづいたものにするのがよい」などというような内容のアドバイスをしており、べつに伊藤は手本をドイツだけにかぎったのではないようである事などが、現代では分かってる。(※ 参考文献: 山川出版社『大学の日本史 教養から考える日本史へ 4近代』 、2016年第1版)
 
スペンサー(イギリスの法学者のひとり)などは、もし日本が憲法をつくるなら、欧米の憲法の文章をまねるだけではダメであり、日本の国の歴史や文化にあっている憲法を考えて作るべき必要があるということを教えました。また、伊藤は、シュタインから、憲法をまなんだほか、さらにシュタインから軍事学や教育学、はたまた統計学や衛生学など、さまざまな学問を伊藤博文は学びました。
 
そして、伊藤は帰国後、ドイツの憲法やアメリカ憲法など、欧米のさまざまな国の憲法を手本にして、 大日本帝国憲法を作りました。
 
<div style="border:1px solid #000000;">
 '''大日本帝国憲法'''の主な内容 (現代語訳)
 
::第1条 大日本帝国は、永久につづく同じ家系の天皇が治める。
::第3条 天皇は神のように尊い(とうとい)。
::第5条 天皇は議会の協力で法律をつくる。
::第11条 天皇が陸海軍を統率(とうそつ)する。
::第29条 国民は、法律の範囲(はんい)内で、言論・集会および結社(けっしゃ)の自由を持つ。
</div>
 
伊藤は、日本の憲法の、天皇についての条文は、ドイツが日本と同じように皇帝をもっているので、ドイツの憲法を手本にするのが良いだろう、と考えたようです。
 
大日本帝国憲法の内容では、まず、天皇が日本を統治すると定められた。そして実際の政治は、大臣(だいじん)が行うとされた。
つまり、日本を統治するのは、藩閥ではなく、華族でもなく、天皇である、ということである。
 
また、憲法では、軍隊は天皇(てんのう)が統帥(とうすい)するものとされた。宣戦や講和も天皇の権限になった。
つまり、政治家が勝手に戦争を初めたり講和したりするのを禁止している。
このように軍隊を統率する権限を 統帥権(とうすいけん) と言います。天皇が統帥権(とうすいけん)を持っています。
 
外国と条約をむすぶのも、天皇の権限である。
 
国民の権利は、法律の範囲内での自由や権利が、保証された。ただし、現在(西暦2014年に記述)の日本の権利とくらべたら、当時の権利は国民にとっては制限の多いものであった。
 
国民には兵役(へいえき)の義務があることが憲法にふくまれていた。
 
大日本帝国憲法は1889年に、明治天皇から国民に発布(はっぷ)されます。「発布」とは、法律などを人々に広く知らせる、という意味です。
 
国民にとっては制限の有る項目が多いものの、大日本帝国憲法は、アジアの国では初めての憲法となった。
そして、日本は憲法を持ち憲法にもとづいた政治を行う立憲国家(りっけんこっか)となった。
 
新憲法は翻訳されて、世界各国に通告された。
イギリスのある新聞では新憲法は高く評価され、「東洋の地で、周到な準備の末に議会制の憲法が成立したのは何か夢のような話だ。これは偉大な試みだ」と報じられた。
 
 
==== 帝国議会 ====
憲法発布の翌年1890年には、国会での議員を選ぶための選挙が行われた。つづいて国会である<big>帝国議会</big>(ていこくぎかい)が同1890年に開かれた。
 
議会の議院(ぎいん)は<big>衆議院</big>(しゅうぎいん)と<big>貴族院</big>(きぞくいん)との2つの議院からなる<big>二院制</big>(にいんせい)であった。選挙で選ばれたのは 衆議院の議員のみ、である。いっぽうの貴族院では議員は、皇族や華族などの有力者から天皇が議員を任命しました。
 
衆議院の立候補者に投票できる権利である選挙権(せんきょけん)は、国税の高額な納税(15円以上。)が必要で、実際に選挙が出来たのは人口の1%ほどに過ぎなかった。
 
また、満25才以上の男子に選挙権が限られた。
 
 
現在(西暦2014年に記述)の日本のような20才以上の日本人なら誰でも選挙権のある普通選挙(ふつうせんきょ)とはちがい、この明治時代の選挙のような制限事項の多い選挙のしかたを「制限選挙」(せいげんせんきょ)と言います。
 
 
ドイツ有名な法律学者のイェーリングは日本の憲法や議会制度を高く評価しました。とくに、議会を両院に分けたことを高く評価した。
 
 
==== 発展的事項:大津事件(おおつ じけん)====
[[ファイル:Prince Nicolas at Nagasaki.jpg|thumb|350px|ニコライ皇太子。1891年、長崎に訪問時のニコライ皇太子(左の車上の人物がニコライ。)]]
1891年、ロシアの皇太子のニコライ2世(ロシア語: Николай II, ラテン文字表記: Nicholai II)が日本を訪問し、日本政府はニコライを接待していた。当時の日本は近代化したばかりの小国であり、いっぽう、ロシアは大国であった。
 
皇太子ニコライが滋賀県の大津町(おおつちょう、現在:大津市)を訪問中に、警備の仕事だったはずの日本人の巡査の一人にサーベルで切りつけられるという事件が、起きた。犯人は、その場で取り押さえられ、捕まった。
 
この事件で、日本の政府はロシアの報復(ほうふく)をおそれて、犯人を死刑にするように要求した。
[[ファイル:Iken Kojima.jpg|thumb|250px|児島惟謙(こじま これかた)]]
しかし、当時の最高裁判所である大審院(だいしんいん)の院長である児島惟謙(こじま これかた)は、日本の刑法の法律にもとづくと、この場合は死刑は不可能であると主張し、無期懲役(むきちょうえき)にするべきと主張とした。
 
政府は、なやんだ。法律をまもるべきなのか? それともロシアに報復されないようにして国の安全をまもるべきなのか?
 
国の安全も大事だが、かと言って、もし法律にしたがわずに死刑にしたら、欧米は、それを理由にして、「日本は法律を守れない国だ」として、欧米が日本を侵略するさいの口実をあたえてしまい、かえって国の安全を、危険(きけん)にしてしまう。
 
日本の政府にとって、なやましい事件であった。
 
日本の新聞などの世論は、これに注目した。日本だけでなく、欧米も、この事件の判決に関心をもった。
 
結局、日本の裁判所は、法律にしたがって、犯人を無期懲役にすることに決まった。
 
日本の法律にもとづいた判決は、当時の欧米からも日本の近代化の進展ぶりを示すもの、というふうに高く評価をされた。
 
==== 朝鮮との国交 ====
1871年に日本は清国と条約を結び、日清修好条規(にっしん しゅうこうじょうき)がむすばれた。
5年後の1876年には朝鮮との国交の条約である日朝修好条規(にっちょう しゅうこうじょうき)がむすばれた。
この条約によって、日本と朝鮮との貿易も始まった。
 
日本の軍事力を背景に不平等な条約を朝鮮におしつけた条約であった。また、この条約で、日本は朝鮮を独立国として見なすことになった。当時の朝鮮は、清国に朝貢をしていた清の属国であったが、日本は今後は朝鮮を清の属国としてではなく、朝鮮を独立国としてみなして、朝鮮と交渉していくことになった。
このため、朝鮮を属国とみなしていた清国とは、しだいに日本は対立をしていった。
 
この条約の前年1875年に、日本の軍艦が朝鮮から砲撃を受けた事件である江華島事件(こうかとう じけん)があり、この事件の原因は朝鮮の近くで無断で測量を行った日本に落ち度があったが、日本はこの事件の被害をもとに交渉を有利にすすめた。
 
== 日清戦争と日露戦争 ==
=== 日清戦争 ===
==== {{ruby|甲午農民戦争 |こうごのうみんせんそう}}と日清戦争 ====
朝鮮では、改革の負担や開国の負担は、農民にまわされた。税は重税になり、農民の生活はますます苦しくなった。このような状況によって、不満が農民たちに高まり、大規模な反乱が1894年に起きた。
 
減税や、腐敗した役人の追放や、日本をふくむ外国の排除を求める反乱である、<big>甲午農民戦争</big>(こうご のうみん せんそう)が1894年に起きたのである。
 
この反乱を起こした農民たちの多くが、「東学」という宗教団体を信じていたので、この反乱を、<big>東学党の乱</big>(とうがくとうの らん)とも言う。キリスト教を「西学」(せいがく)としており、その西学に関して、東洋の伝統的な価値観を「東学」といっていた。
 
反乱は大規模であり、いっぽう朝鮮政府はわずかな兵力しか持っていなかったので、清に鎮圧のための軍の派遣をたのんだ。
 
日本も、事前の天津条約(てんしん じょうやく)による清との取り決めにしたがって、朝鮮半島に反乱鎮圧や居留民(きょりゅうみん)の保護などのための日本軍を出兵した。
 
やがて反乱がおさまったが、日本・清の両国とも兵をひかなかった。
日本・清の両国とも、朝鮮での自国の影響力が弱まることをおそれたのである。
やがて両国は対立が深まっていき、ついに日本と清との戦争が起きました。「日清戦争」は朝鮮の主導権を握る戦争でした。
 
[[ファイル:Une partie de peche.jpg|250px|right|thumb|日清戦争のころの風刺画(ふうしが)。フランス人のビゴー筆。「魚釣り遊び」(''Une partie de pêche'')<br/>魚(=朝鮮)を釣り上げようとする日本と中国(清)、横どりをたくらむロシア]]
これが<big>日清戦争</big>(にっしんせんそう)が1894年に始まる、きっかけである。
戦争は、日本の勝利で翌年1895年に終わった。
 
==== 下関条約 ====
[[画像:Location-of-Liaodong-Peninsula.png|thumb|200px|遼東半島の位置]]
[[File:《马关条约》签字时的情景.jpg|thumb|right|300px|none|下関条約の調印の様子。 向かって左に着席するのが日本の伊藤全権、右が清国の李全権]]
1895年、日清戦争の講和条約として、首相の伊藤博文や外務大臣の陸奥宗光を代表者として、<big>下関条約</big>(しものせきじょうやく)が日本と清とで結ばれた。内容は、以下の通り。
:・ 清は、<big>朝鮮の独立</big>を認めること。
:・ リャオトン半島(遼東半島)を日本にゆずる。
:・ 台湾(たいわん)を日本にゆずる。
:・ 清は、賠償金の3億円を払う。(当時の日本の財政収入の約3倍の金額であった。)
 
以上が、下関条約の主な内容である。
 
朝鮮が清の属国でなくなり、朝鮮が独立国となったことにより、朝鮮は国名を「大韓帝国」(だいかん ていこく)に1897年に変更しました。(「大韓帝国」の国名については、小学生では、おぼえなくてもいい。)
「大韓帝国」の3文字目が「帝」であることに注意してください。
 
これによって、古代から東アジアでつづいていた、中国を諸国の最高権力として周辺国を属国と見る冊封体制(さくほうたいせい)は、完全(かんぜん)に、くずれました。
 
また、台湾が日本領になった。第二次大戦で日本が戦争に負ける1945年(昭和20年)まで、台湾は日本領である。
 
日清戦争後の台湾の領有によって、日本が台湾の統治を行い、日本の投資や開発によって台湾の近代化は行われていく。
 
==== 三国干渉(さんごく かんしょう) ====
ロシアは、日本の勢力が中国にのびることで、ロシアに日本の勢力が近づくことをおそれました。
ロシアは、ドイツとフランスと組んで、日本に遼東半島を清に返させる要求を出すように、日本に要求をだします。
 
(この時代のドイツは、清国の軍艦がドイツ製であったことからも分かるように、ドイツは清に協力的でした。)
 
この、ロシア・ドイツ・フランスによる、リャオトン半島を清国へと返させる要求を、三国干渉(さんごく かんしょう、
英:Triple Intervention)と言います。
 
日本は、三国干渉の要求にしたがい、しかたなく清国にリャオトン半島を返します。
 
 
この三国干渉にかんして、日本国内ではロシアに対する反発から、「臥薪嘗胆」(がしん しょうたん)という言葉が流行した。「臥薪嘗胆」の意味は、復讐(ふくしゅう)のために、がまんすること、と言う意味である。<br>
臥薪嘗胆とは、中国の古い故事(こじ)に由来する熟語(じゅくご)で、漢字の意味は、<br>
薪(たきぎ)の上で寝ることの痛みで屈辱(くつじょく)を思い出し、(= 臥薪)<br>
にがい胆(きも)を嘗(な)めることで、屈辱を忘れないようにする(嘗胆)、ということである。
 
==== 中国の分割 ====
清は軍事力の高い強国だと思われていたのですが、戦争が始まってみると、陸戦でも海戦でも日本の勝利でした。日清戦争の前の清は「眠れる獅子」(ねむれる しし)と諸外国から恐れられていました。獅子とはライオンのことです。しかし、日清戦争の敗北により、清の実力が大したことがないことがわかると、ヨーロッパ諸国は次々と中国大陸での勢力拡大にのり出します。ロシアがリャオトン半島を借りる権利を清から手に入れ、ロシア風の建物が立ち並んでいったりと、まるでリャオトン半島がロシアの領土のようになっていきます。
 
イギリスやドイツ・フランスも、清から土地の権利などの利権を手に入れていきます。
 
一方、清では日本の明治維新にならって、欧米の政治制度を取り入れようとしました。そして、諸外国のろこつな中国への干渉は中国国内での民族意識を高めるきっかけとなりました。
 
===== 義和団の乱(ぎわだん の らん) =====
このようなことから、清の民衆のあいだに、ヨーロッパに対して反発する感情が高まっていきます。
1899年には、義和団(ぎわだん)という宗教団体が欧米の勢力をしりぞけようとする暴動(ぼうどう)を起こします。この暴動を 義和団の乱(ぎわだん の らん) と言います。義和団は、「扶清滅洋」(ふしん めつよう)という言葉を、運動の標語にしていました。「扶清滅洋」の
意味は、「清朝をたすけて、西洋をほろぼせ」という意味です。
 
清の政府は、この乱を支援します。清国政府は、欧米に対して宣戦布告(せんせん ふこく)をします。
 
[[ファイル:Troops of the Eight nations alliance 1900.jpg|400px|right|thumb|連合軍の兵士。左から、イギリス、アメリカ、ロシア、イギリス領インド、ドイツ、フランス、オーストリア=ハンガリー、イタリア、日本。イギリス領インドがふくまれてるので9人いる。]]
欧米は、日本をふくむ8カ国からなる連合軍を派遣し、義和団と清国軍と戦い、乱をしずめます。
 
なお、連合軍は、イギリス・ドイツ・ロシア・日本・アメリカ・フランス・イタリア・オーストリアの8カ国の軍隊からなります。「オーストリア」は、南半球に有る「オーストラリア」ではなく、ヨーロッパに有る「オーストリア」ですので、まちがえないようにしてください。
 
 
=== 日露戦争 ===
==== 日英同盟 ====
義和団の事件のあとも、ロシアは兵力をひかず、ロシア軍は満州にいつづけました。そして、朝鮮半島や清に勢力をひろげようとする南下政策(なんか せいさく)をロシアは目指しました。
 
ロシアは、冬でも凍らない港が、軍事上の理由で必要なのです。このような冬でも凍らない港のことを、不凍港(ふとうこう)と言います。
なので、ロシアは、領土を南方に拡大したいので、ロシアは南下したいのです。
 
いっぽう、中国大陸に利権を持つイギリスにとっては、ロシアの南下政策が不都合です。
さらに当時のロシアは、ロシア国内で東西に長いシベリア鉄道(シベリアてつどう)を建設していました。もしシベリア鉄道が完成すると、軍隊の兵士や軍事物資も、すばやく送れるようになるので、イギリスにとっては、ロシアはとても危険な国でした。
 
そこでイギリスは、ロシアの南下政策に対抗するため、日本とイギリスとのあいだでの同盟を1902年に結びます。この日本とイギリスの同盟を、<big>日英同盟</big>(にちえい どうめい、英語: Anglo-Japanese Alliance アングロ-ジャパニーズ・アライアンス)と言います。
 
義和団の乱の地陰圧の名目でロシアは満洲へ、満州を占領した。義和団の乱の収束後も、ロシアは満州から撤兵しなかった。日本・イギリス・アメリカの3カ国がロシアに抗議(こうぎ)して、ロシアは兵を引くことを約束した。だが、じっさいにはロシアは兵をひかずにいつづけた。それどころか、ロシアは占領軍の増強をした。
 
ロシアの強硬な方針に、イギリスは危機感を感じた。そして、イギリスは、日本と同盟をした。これが日英同盟である。
 
==== 日露戦争 ====
1904年、日本は開戦にふみきった。
 
戦場になった場所は、朝鮮半島の周辺の海域と、満州の陸上および海域であった。
 
陸地での戦場では、旅順や奉天(ほうてん)での戦いで、日本は苦戦のすえ、ロシアに勝った。
 
[[ファイル:Tsushima battle map-ja.svg|thumb|300px|right|ロシア艦隊は対馬近海で連合艦隊と遭遇し、日本海南西部で撃破された。]]
日本海海戦では、海軍中将(ちゅうじょう)の東郷平八郎(とうごう へいはちろう)ひきいる連合艦隊が、ロシアのバルチック艦隊をやぶった。
 
勝敗の結果だけを見ると日本の大勝のように見えるが、日本は大きく戦力を消耗しており、また、軍事費を使いきっていた。日本は、戦争の続行がむずかしかった。いっぽうのロシアでも政府に反対する革命の動きがおきはじめ、ロシア政府は戦争をつづけることが、むずかしくなった。
 
そこで日本は状況が日本に有利なうちに講和をしようと考え、アメリカにロシアとの講和の仲立ちをしてもらって、講和条約である<big>ポーツマス条約</big>(英語: Portsmouth Treaty)がむすばれ、日本とロシアは講話して戦争は終わった。
 
[[ファイル:Jutaro Komura.jpg|thumb|200px|小村寿太郎(こむら じゅたろう)]]
 
条約の主な内容は次のとおりです。
#日本は朝鮮での優越権を認められた。
#日本は南満州の鉄道の権利をえた。
#ロシアは樺太の南半分の領土を日本へゆずる。
#ロシアは旅順・大連をふくむリャオトン半島南端部の租借権(そしゃくけん)を、日本へゆずる。
 
日本は講和を急いだため、賠償金(ばいしょうきん)をとらなかった。このことが国民の反発を呼び、東京の日比谷(ひびや)では焼き討ち事件が起きた。国民からすれば、戦争で多くの負担をしたにもかかわらず、賠償金をとれないことを不満に感じたのであった。
 
日露戦争の前、開戦を多くの国民が支持した。だが、開戦に反対する意見もあった。非戦論(ひせんろん)をとなえた人をあげれば、キリスト教徒の内村鑑三(うちむら かんぞう)や、社会主義者の幸徳秋水(こうとく しゅうすい)が有名である。
 
[[ファイル:Akiko Yosano younger.jpg|thumb|200px|与謝野晶子(よさの あきこ)]]
また、歌人の<big>与謝野晶子</big>(よさの あきこ)は、戦場にいる弟を思いやる詩を書き、「君(きみ) 死(し)にたまふ(たもう)こと なかれ」という詩を書いた。
 
: 「 あゝ をとうとよ 君を泣く
: 君 死にたもふこと なかれ
: 末(すえ)に 生まれし 君なれば
: 親の なさけは まさりしも
: 親は 刃(やいば)を にぎらせて
: 人を 殺せと をしえしや
: 人を 殺して 死ねよとて
: 二十四までを そだてしや 」
(以下省略。雑誌『明星』(みょうじょう)、明治37年(1904年)9月号『恋衣』(晶子第四歌集)所収)
 
==== 韓国併合 ====
日露戦争の勝利によって、大韓帝国でのロシアでの影響力が無くなり、韓国での日本の影響力や支配が強まる。
 
日本は韓国を保護国としてあつかい、朝鮮の内政や外交を指揮するため 統監府(とうかんふ) を置いた。
初代統監には伊藤博文(いとう ひろぶみ)がついた。
 
日本による韓国の保護国化にともない、さまざまな国家主権を韓国から接収したので、韓国の民族運動家からは日本はうらまれることになった。
 
そして、満州に滞在中の伊藤博文が暗殺される事件が1909年に起きる。射殺事件の事件は、起きた年は1909年で、場所は満州のハルビンで、犯人は韓国人の民族運動家である 安重根(あんじゅうこん、朝鮮語読み:アン・ジュングン) であった。伊藤は統監として、韓国人の運動家からは恨まれる(うらまれる)立場にあった。
 
伊藤が死んだこともあり、日本の世論は強行になった。
そして、1910年、日本は韓国の併合を強行し、こうして大韓帝国は無くなり、朝鮮は日本領になった。
この、日本が大韓帝国を併合したことを <big>韓国併合</big>(かんこくへいごう) と言う。
 
 
韓国の併合時、日本は、韓国とは、戦争を、していません。
 
当時の国際社会では、国力の弱い国を、周辺の強い国が保護の目的で取り込み、国どうしが併合(へいごう)することが、けっこう、あった。
 
この併合は対等な合併(がっぺい)ではなく、日本政府の意向に朝鮮の政治がしたがうようになった、不平等な併合であった。
 
さて、併合により、名が「朝鮮」(ちょうせん)に変えられ、韓国統監府は、 「朝鮮総督府」(ちょうせんそうとくふ) にかわった。
 
=== 条約改正 ===
[[ファイル:Munemitsu Mutsu 2.jpg|thumb|150px|陸奥宗光(むつ むねみつ)]]
[[ファイル:Jutaro Komura.jpg|thumb|150px|小村寿太郎(こむら じゅたろう)]]
 
{| class="wikitable" style="float:right"
|+ 条約改正への流れ
| 年 || おもなできごと
|-
| 1858 || 江戸幕府が不平等な条約を結んだ
|-
| 1868 || (明治維新)
|-
| 1871 || 日本の使節団が欧米を視察する<br />視察のさい、条約改正を訴えたが、改正してもらえなかった
|-
| 1883 || 鹿鳴館を開き、舞踏会を行う
|-
| 1886 || ノルマントン号事件が起こる
|-
| 1889 || (大日本帝国憲法が発布される)
|-
| 1894 || イギリスとの間で治外法権が撤廃される<br />日清戦争が起こる(〜1895)
|-
| 1904 || 日露戦争が起こる(〜1905)
|-
| 1911 || 小村寿太郎が関税自主権の回復を達成する
|-
|}
 
日清戦争の直前の1894年に、イギリスとのあいだで、外務大臣の陸奥宗光(むつ むねみつ)の交渉により、治外法権をなくすことに成功した。この治外法権の廃止(はいし)は、日本がイギリスと結んだ、 日英通商航海条約(にちえい つうしょう こうかい じょうやく) による。
 
日新戦争で日本が勝利すると、ロシア・フランスなども治外法権をなくすことに同意したが、日本の関税(かんぜい)自主権(じしゅけん)は、みとめなかった。
 
日露戦争で日本が勝利したことにより日本の国際的な地位が高まると、各国は、関税自主権の改正にも応じるようになり、外務大臣の小村寿太郎(こむら じゅたろう)の各国との交渉により、1911年に日本の関税自主権は回復した。
 
ここでは少し時間を戻して、条約改正までの歴史を見てみましょう。
 
* 岩倉具視(いわくら ともみ)らの視察団
1871年には、欧米諸国に視察(しさつ)のため送られた岩倉具視(いわくら ともみ)らの視察団が交渉したが、欧米は、日本の法律が近代化されていないことなどを理由にして、条約の改正をことわった。
 
* 鹿鳴館(ろくめいかん)
[[File:Chikamatsu Kiken buto no ryakuke.jpg|thumb|400px|鹿鳴館における舞踏会を描いた浮世絵]]
1883年には、東京に、洋風の建物の鹿鳴館(ろくめいかん)を建て、欧米人もまねいて社交のための洋風のダンス・パーティーなども、日々、ひらいてみたが、まったく条約改正は進まず、失敗した。
 
{{-}}
* ノルマントン号事件(ノルマントンごう じけん)
[[ファイル:Normanton Incident(1886).jpg|280px|left|thumb|ノルマントン号事件の絵。ジョルジュ・ビゴー作「メンザレ号の救助」(『トバエ』9号、1887年6月)]]
 
1886年には、和歌山県の沖合い(おきあい)の海上で、イギリス船のノルマントン号(ごう)が沈没する事件が起きた。このとき、イギリス人船長らイギリス人は、イギリス人の乗員だけをボートで助けて、日本人は助けなかった。日本人の乗客は、全員、死亡した。
この事件の裁判は、イギリス人の領事によって、日本国内で、おこなわれた。治外法権による領事裁判権にもとづき、イギリス人領事による裁判が、おこなわれたのである。
 
船長は軽い罪に問われただけで、日本人の多くは、これ日本への差別的な判決として、感じた。なお、船長は禁錮刑(きんこけい)3ヶ月になった。
 
この一連の事件を<big>ノルマントン号事件</big>(ノルマントンごう じけん 、英語:Normanton Incident ノーマントン・インシデント)という。
 
この事件の判決をきっかけに、日本では、条約改正をしようという運動が強まっていったのであった。
 
そして、そのあと、1894年に、イギリスとの間で条約を改正し、1911年には外務大臣の小村寿太郎の交渉によりアメリカとのあいだで日本が関税自主権を回復したのをきっかけに、アメリカ以外の各国もそれにならい、1911年に各国とのあいだの日本の関税自主権の回復に成功したのである。
 
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== 明治の経済の変化と文化 ==
=== 財閥 ===
明治のはじめごろ、国は工業をさかんにするため、官営の工場を経営していた。しかし、政府にとっては財政の負担だった。また、政府が工場の経営をすると、民間の工場の仕事をうばっていることにも、なってしまう。
なので、政府は官営工場の民間への払い下げを1880年代に行った。
 
この払い下げをうけた会社が、三井(みつい)・三菱(みつびし)・古河(ふるかわ)などであった。これらの企業はいろいろな業種の会社を持つ大会社になっていきます。そして、{{ruby|財閥|ざいばつ}}と呼ばれるようになります。
 
=== 日本の産業革命 ===
明治時代の日本の重要な輸出品は生糸や綿糸でした。それを大量に作るために、イギリスから輸入した紡績機(ぼうせきき)を導入します。イギリスの紡績機は、蒸気機関を動力として用いる、最新の紡績機でした。日本でも、紡績機を改良していった。このようにして、繊維工業を中心に、日本の軽工業は発展していきました。
 
原料の綿などは、併合した朝鮮や、獲得した満州などから安い値段のものが輸入され、そのため日本の農家は打撃を受けました。
 
八幡製鉄所(やはたせいてつじょ)の操業が1901年に北九州で始まります。八幡製鉄所は、日清戦争の賠償金をもとにたてられましたが、日本での重工業の発展のきっかけになりました。
 
一方で、自分の土地をもたない小作人が増えました。
理由はいくつかあるが、よくある説は・・・
#税が地租改正によって、現金で払う税金になり、現金収入が少ない農民が借金などで土地を手放さざるをえなくなっていった。
#1880年代ごろ、農作物の値段が急落して、土地を手放さざるをえない農民が増えた。
#朝鮮や清国との貿易で、安い農産物が日本に入ってきて、日本の農家は競争にさらされ経営が苦しくなった。
など。
 
農村で収入が少ない農民は、都市に出稼ぎにいったりした。
貧しい農家の娘などは、紡績工場などの工場などで女工(じょこう)としてはたらくこともあった。
 
女工は、長時間労働で、安い賃金(ちんぎん)で、はたらかされた。それでも、その娘には、ほかに仕事先がないので、その仕事先で、はたらかざるをえなかったのだろう。
 
日本の輸出品の生糸や綿製品などは、この女工などの、安い賃金の労働によって、ささえられていたのである。
 
1925年の『女工哀史』(じょこう あいし)という細井和喜蔵(ほそいわきぞう)という機械工(きかいこう)の労働者が自らの体験をもとに書いた本に、1925年と時代は少しあとの時代だが、このような女工たちのつらい状況が書かれている。
 
==== 足尾銅山(あしお どうざん)の鉱毒(こうどく)事件 ====
[[Image:Ashio Copper Mine circa 1895.JPG|thumb|250px|1895年頃の足尾鉱山]]
栃木県にある足尾銅山では、明治時代ごろには、全国の生産の3分の1の銅を生産していた。
ここで公害事件がおき、鉱石の処理の安全対策が不十分なまま、工場からの排水(はいすい)中に有毒物質の「鉱毒」(こうどく)が周辺の渡良瀬川(わたらせがわ)に流れ込み、川の魚が死に、農作物などは枯れて(かれて)いった。
 
ほかにも、工場の排煙から排出される亜硫酸ガスによって、周辺の山の木や草は枯れていき、はげ山(はげやま)になった。はげ山 になると、洪水がおきやすくなるので、鉱毒でよごれた川の水が広がっていき、ますます被害は拡大した。
作物だけでなく、人間も病気になっていった。死者もふえていった。眼病にかかったり、胃などの内臓の病気にかかっていった人がふえてきた。
 
[[ファイル:Shozo Tanaka.jpg|thumb|200px|田中 正造(たなか しょうぞう)]]
衆議院議員の<big>田中 正造</big>(たなか しょうぞう)は、これらの原因は足尾銅山の鉱毒のせいであるとして議会でうったえた。だが、政府は対策をとられなかった。
 
田中正造は、世論にうったえるため、天皇に直訴しようとした。そのため、議員をやめて、それから天皇に直訴しにいったが、天皇の近くで警官に取り押さえられた。
 
だが、直訴のことが新聞などに報道され、この足尾銅山の鉱毒事件が世間に広く知られた。
 
=== 明治の学問や文化の変化 ===
==== 理科などの自然科学 ====
 
* 医学
:北里 柴三郎(きたざと しばさぶろう)・・・ ペスト菌(きん)の発見。破傷風(はしょうふう)の血清(けっせい)療法(りょうほう)の発見。
:志賀 潔(しが きよし) ・・・ 赤痢菌(せきり きん)の発見。
:野口 英世(のぐち ひでよ) ・・・ 蛇毒(じゃどく)の研究、アフリカでの医療活動および感染病の感染経路の研究。しかし、黄熱病(おうねつびょう)の治療法研究では、成果なし。研究中に本人が黄熱病にかかり死去。
 
<gallery widths=100px heights=130px>
ファイル:Kitasato Shibasaburo.jpg|北里 柴三郎(きたざと しばさぶろう)
ファイル:Kiyoshi Shiga.jpg|志賀 潔(しが きよし)
ファイル:Noguchi Hideyo.jpg|野口 英世(のぐち ひでよ)
</gallery>
 
[[ファイル:Kitasato Shibasaburo.jpg|thumb|130px|北里 柴三郎(きたざと しばさぶろう)]]
北里柴三郎は、破傷風(はしょうふう)という病気の治療法(ちりょうほう)を開発し、そして北里の名前は世界に広まり、また、日本の医学も世界に認められていきました。
 
:(※ 治療法につかわれる「血清」(けっせい)という医学技術は、小学校の範囲外だが、学習マンガとか見れば書いてあると思うから、読者の小学生はそういう本で勉強してください。)
 
また、北里は、日本で伝染病の研究所(北里研究所)をつくりました。
 
志賀潔は、北里のもとで研究をし、赤痢菌を発見しました。
 
{{-}}
[[ファイル:Noguchi Hideyo.jpg|thumb|130px|野口 英世(のぐち ひでよ)]]
野口英世は、1876(明治9)年、福島県の農村に生まれた。幼いころ、左手にやけどをし、左手が不自由になった。しかし15才とき、の手術により左手が治り、そして野口は医者を目指すようになった。そして野口は、医師になる試験に合格して、野口は医者になった。やがて野口は、北里研究所に入り、医学の研究をかさねた。1900年、野口はアメリカに渡り、そしてヘビ毒の研究で有名になった。そして野口は、当時の世界の最先端の医学を研究しているロックフェラー研究所の所員になり、梅毒(ばいどく)などの研究をし、活躍した。
 
その後、野口は原因不明の黄熱病(おうねつびょう)の研究のため、その病気の発生地帯の南米のエクアドルやガーナなどに渡り、現地で研究をつづけていたが、野口みずからが黄熱病に感染してしまい、そして1928(昭和3)年に野口英世はなくなりました。
 
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* 文学
明治時代になると、小説が流行ってきた(はやってきた)。
 
そして、明治時代に、夏目漱石(なつめ そうせき)や樋口一葉(ひぐち いちよう)などの小説家が登場した。
 
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ファイル:Natsume Soseki photo.jpg|夏目漱石(なつめ そうせき)
ファイル:Higuchi Ichiyou.png|樋口 一葉(ひぐち いちよう)
</gallery>
 
:夏目 漱石(なつめ そうせき)は、小説家である。もともとは教員の仕事についていて、主に英語を教えていた。なので、彼の作品も、教員としての経験や英文学の知識をもとにした手法の作品が多い。漱石の作品としては、『吾輩は猫である』(わがはいは ねこで ある)、『坊っちゃん』(ぼっちゃん)などの作品が有名。
 
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樋口 一葉(ひぐち いちよう)や与謝野 晶子(よさの あきこ)など、女の作家も、この明治時代に出てきた。
 
樋口 一葉(ひぐち いちよう)は小説家であり、代表作は、『たけくらべ』、『にごりえ』などである。
与謝野 晶子(よさの あきこ)は短歌の作家であり、代表作は、『みだれ髪』、『君死にたまふことなかれ』などである。
 
俳句(はいく)では、正岡子規(まさおか しき)が活やく(かつやく)した。
 
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== 第一次世界大戦 ==
[[ファイル:Europe1914-jp.png|right|600px|thumb|'''ヨーロッパの参戦国''' 同盟国(赤紫)、連合国(薄緑)、中立国(黄)。]]
第一次大戦では、ドイツ・オーストリア・トルコなどの陣営と、イギリス・フランス・ロシアなどによる陣営とが戦争をしていました。
 
ドイツ・オーストリア・イタリアの三国は三国同盟(さんごくどうめい)を結び、同盟国(どうめいこく)と言われます。対してロシア・フランス・イギリスは三国協商(さんごくきょうしょう)を結び、連合国(れんごうこく)と言われています。
 
戦争は長期化した。この戦争で、毒ガス(どくガス)、潜水艦(せんすいかん)、戦車(せんしゃ)や飛行機が新兵器として登場し、被害をさらに大きくしていきました。
 
日本はイギリスと日英同盟をむすんでいたままなので、イギリス側である連合国(れんごうこく)の側に立って参戦しました。しかし、主な戦場であるヨーロッパから遠かったので、中国大陸の青島(チンタオ)にあったドイツの基地を攻撃・占領しました。
 
=== なぜ第一次世界大戦が起きたのか ===
ヨーロッパ南東部の、ルーマニアやギリシャなどのあるバルカン半島(Balkan)の支配をめぐって、オーストリアとロシアが対立をしていた。
 
(※ 南半球のオースト「ラ」リアでなく、北半球にあるオーストリアなので、間違えないように。)
 
第一次大戦の前からバルカン半島では多くの戦争や紛争があり、バルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」(かやくこ)と言われていた。
なぜ、紛争が多いかというと、バルカン半島には多くの国や民族があるのであった。ルーマニアやブルガリアやセルビアやアルバニアやギリシアなどが、バルカン半島に、あった。
1912年や1913年には、バルカン戦争が起きていた。
 
そしてセルビアではロシア系の民族であるスラブ人が多かった。(ヨーロッパ各地のロシア系の民族をスラブ人という。ロシア人もスラブ人である。)
 
1914年に、オーストリアの皇太子の夫妻がボスニアの首都のサラエボをおとずれていたときに、皇太子夫妻が暗殺される事件が起きた。この暗殺事件を <big>サラエボ事件</big>(サラエボじけん) という。この事件の犯人が、セルビア人の青年であった。
 
この事件に対する報復で、オーストリアが1914年にセルビアに宣戦布告したのが、のちの第一次世界大戦のきっかけであった。そしてオーストリアの同盟国のドイツはオーストリアを支持した。
 
いっぽう、セルビアの支持国については、ロシアはセルビアの支持をした。ロシアと協力関係にあったフランスやイギリスも、ロシアの支持を通して、セルビアを支持した。
 
オーストリアの支持の側であるドイツは、セルビアを支持しているロシアやフランスやイギリスに対して宣戦布告した。
 
では、なぜセルビアとオーストリアが対立していたのかというと・・・<br>
オーストリアは1908年にボスニア・ヘルツェゴビナをオーストリアに併合したのだが、セルビアも、このボスニア・ヘルツェゴビナを併合しようとしていたので、このボスニア・ヘルツェゴビナをめぐってオーストリアとセルビアと対立していたのである。
 
では、なぜ1908年に急にオーストリアがボスニア・ヘルツェゴビナを併合したのかというと、中東のアラブ地方にあるトルコで、青年トルコ革命(せいねんトルコのかくめい)という出来事があり、この革命の混乱に乗じて、オーストリアがボスニア・ヘルツェゴビナを併合したのである。
 
青年トルコ革命については、説明しない。小学生だったら、ここまで知っていれば、十分である。(青年トルコの革命は、小学校や中学入試ではテストに出ないだろう。)
 
つまり、・・・
:青年トルコの革命 → オーストリアによるボスニア・ヘルツェゴビナの併合 → サラエボ事件 
という流れになってる。
 
ちなみに、日本が日露戦争でロシアに勝ったことが、日本人と同じく有色人種であるトルコ人に革命の気運をもたらしたのである、という見方をする説もある。
 
 
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世界大戦のさなか、ロシアでは革命が1917年に起きる。
 
ロシアでは、日露戦争のころから、ロシア皇帝の圧政(あっせい)に反対する運動があったが、第一次世界大戦による物資の不足などで国民生活が苦しくなり、ますます皇帝政治に対する反対運動が強まっていた。
 
そして1917年に、労働者の抗議(こうぎ)などの運動が起こり、軍隊もこの運動に同調した。軍隊が、皇帝を裏切った以上、もはや皇帝を守るものはなく、ロシア皇帝のニコライ2世は退位するはめになった。そして、退位後、ニコライ2世とその一族は、革命政府により殺害された。こうしてロシアの帝政(ていせい)は終わり、ロマノフ王朝(ロマノフおうちょう、英表記:House of Romanov)は終わった。
 
帝政にかわる、革命運動による臨時の政府は、<big>ソビエト連邦</big>(ソビエトれんぽう、英語表記:Soviet)と呼ばれた。こうしてロシア政府にかわり、ソビエト政府が、ロシアの領土を支配することになった。日本語では、「ソビエト連邦」を略して「ソ連」(ソれん)とも言う。
 
ソビエト政府も、第一次世界大戦を、ロシア・フランス・イギリスの三国協商のまま、イギリスやフランスと協力したが、革命によるソビエト国内の混乱もあり、ソビエトは戦争から引いていった。
 
1918年に、ソビエトはドイツ側と講和して、ソビエトは連合国では無くなった。
 
ソビエトの政治の仕組みは社会主義(しゃかい しゅぎ)や共産主義(きょうさん しゅぎ)と言われる方式であり、当時としては新しい方式の政治の仕組みだった。社会主義や共産主義について説明すると長くなるので、この節では説明しない。
 
社会主義や共産主義を、かんたんに言うと、・・・
:社会主義(しゃかい しゅぎ、英: socialism) ・・・ 大元(おおもと)の意味は、「社会のみんなで、政治をしよう」とか「社会を良くする政治をしよう」いう主義なので、社会主義と言う。日本では、社会主義が天皇制を打倒しようとする反乱の考えとも受け取られた。実際にロシアではロシア革命により皇帝が殺害されているので、無関係でも無い。たとえ日本人の社会主義者に天皇制を打倒しようとするものが少なくても、外国の社会主義者はちがうかもしれない。また、ロシアで革命が起きていることもあり、政府や警察からは、社会主義は「革命を起こして今の政府を変えよう」という革命主義かもしれないと受け取られる弾圧されていくことになる。
:この時代と同じ頃、日本では労働運動で労働者の地位向上をうたてる運動がさかんであり、かれら労働運動家が「社会主義」をなのることが多かったので「労働運動によって労働環境を変えていこう」という運動とも社会主義が混同されることになった。
:「社会主義」は、大元の意味が「社会のみんなで、政治をしよう」などといった、はっきりしない意味なので、いろんな意味に解釈されて、いろんな意味でこの「社会主義」という言葉が使われることになる。
 
 
:共産主義(きょうさん しゅぎ、英: Communism) ・・・ 工場などの生産手段を、国などの公共機関が管理することで、地主や工場主などの資本家(しほんか)による労働者への不利なあつかいをふせごうとする経済に関する主義。生産手段を共有するので、共産主義と言う。したがって工場主や社長などは、会社や設備を私有(しゆう)できなくなるので、共産主義は私有財産(しゆうざいさん)の否定の思想でもある。
:だが、ロシア革命などの歴史的な経緯から、社会主義と共産主義とが混同されることがある。社会主義と同様に、天皇制を打倒しようとする思想と混同された。
:当時は革命思想と混同されたていたので、警察などから共産主義が強く取り締まられることになった。
 
 
ちなみにヨーロッパで共産主義の思想を初めて唱えたマルクスとエンゲルスの二人は、ドイツ人であり、べつにロシア人ではない。しかもエンゲルスにいたっては、工場主の経歴を持つ資本家の側の人間である。
 
 
だが、ロシア革命後、ソビエト連邦が社会主義運動や共産主義運動の中心地になったので、ソビエトに従おうとする政治思想と共産主義・社会主義とが混同されることになった。
 
=== アメリカの参戦 ===
1917年、アメリカがイギリスの側として参戦する。アメリカから支援された大量の物資や武器などにより、イギリス側の連合国が有利になった。
連合国の側にアメリカと日本という、当時の強国が2つも加わったこともあり、戦争は連合国に有利に進んだ。
 
そして1918年、ドイツが負けを認めて降伏(こうふく)し、よってアメリカ・イギリス・フランスの連合国が勝利して、第一次世界大戦は終わった。ドイツとオーストリアは負けた。
 
イタリアは、戦争の途中で、連合国の側の支持へと変わった。
 
=== 戦後処理 ===
フランスの首都のパリで開かれた講和会議(こうわかいぎ)であるパリ講和会議で、ドイツとの間で戦後の処理のための条約として、<big>ベルサイユ条約</big>(フランス語:Traité de Versailles) がむすばれた。「ベルサイユ」とは、パリにあるベルサイユ宮殿(きゅうでん)で、この講和会議が行われたことによる。
 
ドイツは多くの賠償金をはらうことになった。
 
そしてドイツが各地に持っていた植民地は、放棄させられた。なお、イギリスなどの戦勝国は、べつに植民地を放棄していないので、植民地の解放運動とは無関係である。
 
対戦前にドイツが持っていた中国の山東省の権益や、太平洋の南洋諸島の権益は、日本が受け継ぐことになった。
 
* 国際連盟の設立
アメリカ大統領ウィルソンの提案によって、平和を目的とした<big>国際連盟</big>(こくさい れんめい、英:League of Nations)の設立が決まった。そして1920年に、国際連盟が設立した。国際連盟の本部はスイスのジュネーブに置かれた。
 
スイスは、永世中立国(えいせい ちゅうりつこく)である。中立国とは、戦争の時に、どの外国にも協力しない、ということである。
(※ べつに、中立は、「戦争をしない」という意味ではないし、「軍隊を持たない」という意味でもない。スイスは軍隊を持っているし、もしスイスが攻め込まれたらスイス国民は自国を守るための戦争を行う。)
 
スイスは中立国なので、国際機関の本部の場所として良いだろうと考えられ、スイスが国際連盟の場所に選ばれたのである。
 
この国際連盟と、のちに作られる国際機関の国際連合(こくさい れんごう、英:United Nations、略称:UN ユー・エヌ )とは、べつの組織である。
 
国際連合が作られるのは第二次世界大戦のあとであり、第一次世界大戦のあとの時代には国際連合(UN)はまだない。
 
 
国際連盟を提案したアメリカは、国際連盟には加盟していない。アメリカ議会の反対により、アメリカは国際連盟には加盟していない。
 
[[ファイル:Inazo Nitobe.jpg|thumb|200px|新渡戸稲造(にとべ いなぞう)]]
日本人の<big>新渡戸 稲造</big>(にとべ いなぞう)が、国際連盟の事務局の次長(じちょう)として選ばれた。「次長」というのは役職のひとつで、二番目ぐらいにえらい役職のことである。
 
今日(2014年に記述。)の一般の会社でも次長という役職があり、社長や部長などの次にえらいのが次長である。
 
 
なお、国際連盟の常任理事国に、日本が入っている。
 
* ワシントン会議
各国が、おたがいに軍備の保有量を減らして少なくするという軍縮(ぐんしゅく、英:Disarmament)のための会議が、1911年、1912年にアメリカのワシントンで開かれた。この会議を <big>ワシントン会議</big>(Washington Naval Conference) という。
 
このワシントン会議によって、各国の海軍の軍事力を軍縮することが決まった。
 
イギリス・アメリカ・日本・フランス・イタリアの軍艦の主力艦(しゅりょくかん、英:Capital ship)の保有トン数の比が、
 
:イギリス:アメリカ:日本:フランス:イタリア = 5 : 5 : 3 : 1.67 : 1.67
と、決まった。
 
主力艦以外の、補助艦については、まだ決まっていない。
 
 
また、日本・アメリカ・イギリス・フランスによる、太平洋における各国領土の権益を保障した四カ国条約(よんかこくじょうやく)が結ばれ、それにともなって日英同盟は廃止(はいし)された。
 
交渉の結果、日本は山東省を中国(中華民国)に返すことになったので、中国に山東省を返還した。
 
軍縮によって、軍事費の増大にこまっていた日本の政府は助かった。だが、日本国内の一部の強硬派には、軍縮に不満も多かった。
 
このようなワシントン会議によって決まった国際社会の体制を ワシントン体制(ワシントンたいせい、Washington Naval Treaty) と言う。
 
 
* ロンドン会議
ワシントン会議では、補助艦の保有トン数の制限については、決まっていなかった。1930年のロンドン会議(英:London Naval Conference)では、補助艦の保有トン数の制限が決まった。
:イギリス:アメリカ:日本 = 10 : 10 : 7
の比率である。
 
ロンドンはイギリスの首都で、ロンドンでロンドン会議が開かれた。
 
== 民族独立への運動 ==
第一次世界大戦の戦後処理で、アメリカ大統領ウィルソンが提唱した「民族自決」(みんぞく じけつ)という「どの民族も、他の民族から支配されるべきではない」という思想によって、オーストリアからはハンガリー、チェコスロバキア、ユーゴスラビアが独立し、ロシアからもポーランドやフィンランドが独立した。
 
しかし、この民族自決の思想は、ヨーロッパの民族にだけしか適用されず、アジアやアフリカなどは、植民地のままであった。
 
== 世界大戦による日本の好景気 ==
 
第一次世界大戦の被害を、日本とアメリカは、ほとんど受けなかった。またヨーロッパは戦争のため、中国などのアジア市場に手が回らず、そのため日本がアジア市場を、ほぼ独占できた。
 
さらに軍需や船などの需要が増え、日本の軍需産業や造船業が好景気になった。
 
このような要因があり、日本は好景気になった。この第一次世界大戦による日本の好景気のことを、「大戦景気」(たいせん けいき)という。
 
商人には、うまく商売に成功して、急に大金持ちになるものが出てきた。彼らは「成金」(なりきん)と呼ばれた。将棋で「歩」が「と金」になることに例えられたのである。
 
特に、船と鉄に関する商売が好景気だったので、船成金(ふねなりきん)などが出てきた。
 
 
* 米騒動(こめそうどう)
好景気にともない、物価が上昇した。特に戦争により米の輸入が減ったこともあり、米の価格が上昇した。
米の価格が上昇すると、米の値上がりを期待して取引で儲け(もうけ)ようとする商人などがあらわれはじめ米の買い占めがおこり、ますます米が値上がりしていった。米が急に値上がりしたので、庶民は米が買えなくなり、また、かわりの穀物(こくもつ)も、すぐにはできないので、庶民は食べ物にこまることになった。
 
1918年には、富山県で主婦たちが米屋に安売りを要求して暴動がおきたことをきっかけに、全国で米の安売りをもとめる暴動が起きた。
これら一連の米に関する騒動(そうどう)を、<big>米騒動</big>(こめそうどう)と言う。
 
当時の内閣の寺内正毅(てらうち まさたけ)内閣は、この米騒動により議会で辞職に追い込まれた。
[[ファイル:Takashi Hara formal.jpg|thumb|200px|left|原敬(はら たかし)]]
そして1918年に新しい内閣総理大臣が決まり、立憲政友会の総裁の<big>原敬</big>(はら たかし)が、寺内の次の内閣総理大臣になった。
 
 
このように、好景気にかんして、いろんなことが日本で起きた。
 
しかし、ヨーロッパでの世界大戦が終わり、ヨーロッパの産業が回復してくるにつれて、日本は不景気になっていった。1920年には、日本は不景気になっており、多くの会社や工場が倒産(とうさん)した。
 
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== 関東大震災 ==
[[file:Desolation of Nihonbashi and Kanda after Kanto Earthquake.jpg|thumb|right|700px|京橋の第一相互ビルヂング屋上より見た東京日本橋および神田方面の、ひさんな状況(じょうきょう)]]
1923年に、関東地方で東京と横浜を中心に大地震(だいじしん)が起きた。死者・行方不明者は14万人以上であった。この地震を <big>関東大震災</big>(かんとう だいしんさい) と言う。
また、地震による被害(ひがい)で、日本の不景気が、さらにひどくなった。
 
なお、この地震で、「朝鮮人が反乱を、くわだてている」という内容のデマ(「デマ」とは、かんちがいした連絡や伝言などのこと。)が飛び交い、不安にかられた民衆らが、朝鮮人や社会主義者らを殺害する事件が起きた。
 
東京に朝鮮人がいた理由については、当時は韓国併合後の時代だったので、仕事などで日本に働きにきていた朝鮮人がいたのです。
 
 
== 大正デモクラシー ==
* 護憲運動(ごけん うんどう)
藩閥政治(はんばつ せいじ)を批判し、政党による政治を主張する 護憲運動(ごけん うんどう) が政党から主張された。。
 
立憲政友会の尾崎行雄(おざき ゆきお)や、立憲国民党の犬養毅(いぬかい つよし)などが護憲運動の中心になった。
 
 
* 政党内閣
1925年の加藤高明(かとう たかあき)内閣で、普通選挙法が成立。満25才以上のすべての男子に選挙権が与えられた。納税額は、選挙権には関係なくなった。まだ、女子には選挙権は無い。
 
1928年には、第一回の普通選挙が行われた。
 
* 治安維持法(ちあん いじほう)
また、暴力的な革命運動を取り締まる目的で治安維持法(ちあん いじほう)が1925年に成立した。治安維持法を制定した背景には、ソビエトなどから革命思想が日本に入ってくることを恐れたのだろう、という説が有名である。
 
だが、この治安維持法は、本来の目的とはちがい革命とは結びつかない労働運動をも取り締まる目的で悪用されることになり、さらに、のちの時代には政府に反対する者を弾圧するために悪用されることになる。
 
政府は、普通選挙法との引きかえに、治安維持法を成立させた、という考えが強い。
 
 
* 平塚らいてう(ひらつか らいちょう)
[[ファイル:Raicho Hiratsuka.jpg|thumb|200px|平塚らいてう(ひらつか らいちょう)]]
女性の地位の向上や、女子の選挙権の獲得を目指す女性解放運動(じょせい かいほううんどう)が、平塚らいてう(ひらつか らいちょう)などにより主張された。
 
平塚らいてうは市川房江(いちかわ ふさえ)と協力して、新婦人協会(しんふじん きょうかい)をつくった。
 
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== 国際社会 ==
* アメリカ
第一次世界大戦の前からアメリカは生産力がとても高かった。さらに、戦争によりヨーロッパが弱体化したので、戦後はアメリカが世界経済や国際政治の中心地になった。
 
 
*世界恐慌(せかい きょうこう)
[[ファイル:Crowd outside nyse.jpg|thumb|300px|right|アメリカの金融取引所のウォール街(ウォールがい、場所はニューヨークにある)で、騒然(そうぜん)とするアメリカ人たち。]]
1929年に、アメリカで株価が大きく下がった。株価などが大きくさがることを「暴落」(ぼうらく、英:Crash)あるいは「大暴落」(だいぼうらく、英:Great Crash)などという。この株価の大暴落(だいぼうらく)をきっかけに、世界的な不景気になり、世界中で多くの会社が倒産したり銀行が破綻(はたん)して、世界中で失業者が増えた。このアメリカの株価の暴落がきっかけになった世界の不景気を<big>世界恐慌</big>(せかい きょうこう、英:world economic crisis ワールド・エコノミック・クライシス)という。
 
このアメリカでの暴落が起きた日の曜日が木曜日だったので、「暗黒の木曜日」つまり英語に直すと「ブラック・サーズデイ」(black Thursday)とも、言うようになった。アメリカでは、労働者の4人につき1人が失業した。(失業率25%)
 
 
* 日本の状況
日本は、アメリカ向けの生糸などの輸出でもうけていたので、日本も世界恐慌の影響を強く受け、日本も不景気になった。日本では世界恐慌の前から、すでに大戦景気の終わりによって不景気になっていた。その上、さらに世界恐慌がやってきて、日本はとてつもなく不景気になった。
 
多くの会社が倒産した。このため、三菱や三井・住友などの財閥が倒産した会社の事業を吸収した。だが、このことによって、財閥が大もうけしていると庶民から見られるようになり、財閥が敵視されるようになっていった。
 
同じころ、第一次大戦後の軍縮のながれがあったので、各国の政府は不景気もあり軍事費をへらすため、軍縮に同意した。
 
だが、日本では、軍部から政党を敵視する意見が強くなった。
そして、政党も財閥の見方をしていると考える勢力がおおくなり、軍部からは政党を敵視する意見が強くなった。
 
 
日本では、農業が混乱していた。まず1930年では、豊作で米の価格が暴落し、農家の収入がへり、農家がくるしくなった。そして翌年の1931年には、こんどは凶作で、東北地方を中心に、農村が不況になった。欠食児童(けっしょくじどう)がでたり、娘(むすめ)を身売りさせる家も出てきた。
 
* ドイツの状況
ドイツでは第一次大戦の賠償で国家財政が苦しくなっているのに加えて、そこに大恐慌がやってきたので、貨幣のマルクの信用が落ち、物価がものすごく上がった。このように物価が上がることを インフレ(英:inflation インフレーション) と言う。ものすごく物価が上がることを ハイパー・インフレ(英:Hyperinflation) という。
 
パンなどの食料品を買うのにすら、手押し車に札束をたくさんつめて買い物をする、という状況であった。
このような状況のため、ドイツ経済は大混乱になり、失業者があふれた。
 
 
 
* ブロック経済(ブロックけいざい)
欧米などの各国は、世界恐慌の負担を、植民地におしつけた。そのため、イギリスとフランスは、本国と植民地とのあいだだけで自給自足をしようとして、外国からの輸入品には高い税金をかけて、追いだそうとした。(このような、外国の商品にかける税金を関税(かんぜい)と言う。つまりイギリスやフランスなどは、輸入品に高い関税をかけた。)
 
このようにして植民地と本国だけからなるブロック内で自給自足する ブロック経済(ブロックけいざい、英:bloc economy) をつくっていった。そのため、今までの自由貿易主義を、イギリスやフランスは、やめていった。
 
こうなると、日本やドイツなどの、あまり大きな植民地をもたずに、貿易による輸出でかせいでいた国は、とても経済が苦しくなることになる。実際に、日本の経済は苦しくなっていった。
 
イギリスほどの植民地ではないが、日本もまた満州に権益をもっていたので、満州の権益の保護を強めようとした。
 
[[ファイル:Chiang Kai-shek Colour.jpg|thumb|150px|蒋介石(しょう かいせき)]]
同じ頃、中華民国では、孫文の亡くなったあと、国民党で権力闘争が起き、その闘争に勝った蒋介石(しょう かいせき)が支配していた。蒋介石は、もとは軍学校の中国軍の幹部を養成する黄埔軍官学校(こうほ ぐんかんがっこう)の校長をしており、そのため、蒋介石は軍事力をにぎっている立場にあり、政敵との権力闘争で有利だった。蒋介石によって国民党が支配された後、国民党による中国大陸の統一を目指した武力行動によって中華民国内での国民党の勢力が広まっていき、この国民党と日本とのあいだで、満州の権益をあらそうことになっていった。
 
ちなみに蒋介石は日本に留学していた経験を持ち、日本の軍学校の東京振武学校(とうきょう しんぶがっこう)で軍事学をまなび、軍事訓練を受けていた経験も持つ。
 
 
いっぽう、蒋介石の権力に不満のある軍閥は、共産党(きょうさんとう)という、国民党とはべつの勢力に加わっていくことになる。
 
いっぽう、ヨーロッパでは、第一次大戦で植民地および領土を失ったドイツと、もとから植民地の少ないイタリアを中心に、イギリスやフランスなどを敵視する勢力が強くなった。
 
[[ファイル:Adolf Hitler Berghof-1936.jpg|thumb|200px|left|ヒトラー]]
とくにドイツでは、第一次大戦による賠償金などもあり経済が苦しかった上に、世界恐慌により、ドイツの貨幣の価値が暴落した。このような状況により、ベルサイユ条約への不満が高まり、このベルサイユ条約への批判をかかげる政党である'''ナチス'''(ドイツ語:Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei)ひきいる政治家の'''ヒトラー'''(Adolf Hitler アドルフ=ヒトラー)が、ドイツ国民の支持をあつめて、1932年の選挙では、ヒトラーひきいるナチスが政権を手にした。1934年にはドイツの憲法を無視して独裁体制をつくり、そして1935年にはベルサイユ条約からドイツは抜けた。ドイツの国民はヒトラーの、このような政策を支持した。ベルサイユ条約ではドイツの軍備が規制されていたが、条約をやめたのでドイツは再軍備(さいぐんび)をしていった。
 
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* 世界的な傾向
ソビエト連邦は、経済が、もとから共産主義であり、欧米型の資本主義ではなかったので、あまりソビエトは世界恐慌の影響をうけなかった。
 
このようなこともあり、世界恐慌にくるしむ各国では、ソビエトのように経済における統制をしようとする意見が強まっていく。
 
そして、経済だけでなく、政治全体においても統制を強めようとする全体主義(ぜんたいしゅぎ)の意見が、日本でも軍部などを中心に強まっていく。
 
こうして、世界恐慌により、全体主義の国が増えていく。
もとから全体主義であるソビエトや中華民国にくわえて、さらにドイツやイタリアや日本が、全体主義になっていった。
 
{{コラム|民主主義について|
現在(2014年に記述)の日本では、民主主義および平和主義を、政治の根本にしているので、これら2つの主義を混同しがちですが、そもそも民主主義と平和主義とは別の主義です。
民主主義とは、単に、「政治の主権者が国民であるべきだ。」という思想のことです。したがって、国民が戦争を支持すれば、民主主義国では戦争は支持されます。
 
[[File:JStalin Secretary general CCCP 1942 flipped.jpg|thumb|200px|ソビエト連邦の独裁者である、スターリン。]]
ソビエトや中華民国は、けっして民主主義では、ありません。ソビエトや中華民国には、普通選挙などの一般の国民による選挙制度が、ありません。当時のソビエトはスターリンの独裁する独裁国家です。中華民国も、蒋介石の独裁する国家です。(当時の中華民国に、選挙制度なんてありません。)
 
もしソビエトや中華民国を「民主主義の国」という学校教員がいれば、単なる不勉強の教員です。
 
日本は、中華民国と満州の利権などをめぐって争いますが、これは全体主義国どうしの争いです。全体主義国・日本の敵国だからと言って、けっして相手国が民主主義であるだなんて論法は成り立ちません。
 
この「ソビエトと中国は、民主主義では無い。」というような主張は、べつに日本人の一部の評論家だけがいってるのではなくて、世界的にも、第二次世界大戦後から、アメリカやイギリス・フランスなどを始めとして世界の多くの国で、ずっと言われてることです。
 
なんで、わざわざ、こんな当然のことをクドクドと指摘(してき)するのかというと、こういった当然の基礎知識(きそ ちしき)すら知らない不勉強な大人が、日本には、いるからです。
 
日本では、1930年ごろの日本の全体主義的な行動を批判するあまりに、まるで当時の日本の敵国がすべて民主主義国であったかのような勘違いをする大人がいるのですが、そういう不勉強な大人はあまり信用しないほうが良いでしょう。
 
そもそも独裁かどうかということと、その国の行為に道義性(どうぎせい)があるかということとは、まったくの別問題です。
そもそも民主的であるかということと、その国の行為性に同義性があるかということも、まったくの別問題です。
もし「民主的な手続きさえあれば、その国の政策は正義(せいぎ)だ」と言うならば、たとえばイギリスがインドや中国を植民地にした時代にもイギリス本国では民主主義の選挙制度があったのだから、したがって「イギリスは民主主義なので、インド侵略は正義」という結論になってしまいますよ?
 
イギリスの例からも分かるように、民主主義とは、べつに平和主義のことでは、ありません。イギリスは戦争によって、インドや中国を植民地にしたのです。
}}
 
 
* ファシズム
ドイツおよび日本の全体主義的で軍国主義的な思想や傾向は、'''ファシズム'''と言われた。元々の意味は、イタリアの政党の「国家ファシスト党」(こっかファシストとう、イタリア語: Partito Nazionale Fascista、PNF))の政治思想が言葉の由来である。このイタリアのファシスト党の政治思想が全体主義的で軍国主義的な思想だったので、このような全体主義的で侵略的な思想を'''ファシズム'''(fascism)というようになった。そして、このような軍国主義的な傾向をかかげるドイツや日本の政治家を、アメリカやイギリスなどが「ファシスト」(fascist)と批判するようになった。「ファシズム」という用語は、アメリカなどがドイツを批判するためにもちいたのであり、ドイツのナチス党自身はナチス自身の政策のことを「国家社会主義」(こっか しゃかいしゅぎ,ドイツ語: Nationalsozialismus、英語: national socialism)と言っていた。
 
しかし、ソビエトと中国での軍国主義はファシズムとは呼ばれない。
ソビエトや中国の思想も、ドイツなどと似たような軍国主義的な思想だったが、のちにドイツとソビエトが対立し、また日本と中国とが対立したこともあり、またアメリカやイギリスがソビエトおよび中国と協力したので、ソビエトと中国での軍国主義はファシズムとは呼ばれないことになっていった。
 
このように、「ファシズム」や「ファシスト」という言葉は、アメリカやイギリスなどの都合でドイツや日本の政治を批判した言葉に過ぎず、あまり正確な意味をもたない。
 
スペインや東ヨーロッパの諸国の政治でも、軍国主義的な勢力が強くなっていった。
 
だが歴史学では、「ファシズム」という用語は国際的にも学術用語・歴史用語として定着している。
この国際的な意味での歴史用語・学術用語として「ファシズム」の意味は、単にドイツとイタリアと日本の、世界恐慌後から第二次大戦終了までの政治の、強権的な政策や、軍備拡張的な政策、対外侵略的な政策のことを言ってるだけです。
 
日本国の中学や高校の学校教育での教科書も、国際的な「ファシズム」の意味と同じように、単にドイツ・イタリア・日本に限定して「ファシズム」という用語が使われている。
 
== 満州事変 ==
[[File:Manchukuo map 1939.svg|thumb|600px|満州国の位置。Manchukuoが満州国。1939年ごろ。]]
中国大陸の東北部にある満州で、日本軍により1931年に満州国(まんしゅうこく)が建国されます。
 
=== 満州事変にいたるまでの、いきさつ ===
[[File:Zhang Zuolin3.jpg|thumb|殺された、張作霖(ちょう さくりん)]]
中国では、辛亥革命のあと、各地で、「自分こそが中華民国の正当な支配者である」と主張する多くの軍閥が、おたがいに、あらそっていた。
 
孫文のつくった国民党と、そのあとをついで国民党の支配者になった蒋介石も、当時は、そのような軍閥の一つにすぎない。中国の国民は、だれも選挙で蒋介石をえらんではいない。当時の中国に選挙の制度なんて無い。
 
満州を支配していた中国人は、張作霖(ちょう さくりん)という満州地方で軍閥をひきいていた人物だった。張作霖は、満州および北京を支配していた。
 
満州の軍閥の張作霖は、日本と協力することで日本を利用して、満州を実質的に支配していた。
 
 
いっぽう、中国大陸の南部では、国民党の蒋介石が南京を中心地に支配していた。
 
蒋介石は、中国の統一を目指し、張作霖ひきる北京政府を倒す戦いを始めた。この蒋介石のたたかいを 北伐(ほくばつ) と言う。
 
蒋介石ひきいる北伐軍が北京にせまってきたので、張作霖は北京から奉天に引き上げようとした。その列車の中で、張作霖は日本の一部の軍人の陰謀により爆殺される。張作霖が、日本のいうことを聞かなくなってきたので、かれを殺害しようとする陰謀だった。
 
この爆殺事件を「張作霖爆殺事件」(ちょうさくりん ばくさつじけん)などと言う。
 
だが結果的に、陰謀は裏目にでる。張作霖の息子の張学良(ちょう がくりょう)は日本に反発し、蒋介石ひきいる国民党に合流することになる。
 
当時の首相の田中義一らは、この爆殺事件の犯人の日本軍人たちをきびしく処罰しようとした。
だが政府は、陸軍などの反対にあい、犯人の軍人たちを、きびしく罰することができなかった。そのせいで、のちに軍人たちが政府や議会のいうことを聞かなくなっていく。
 
 
そもそも北京から北の地方の土地である満州地方などは、歴史的には、中国の土地ではない時代が多い。中華民国の前の清の時代には、たまたま満州が清を支配していた満州族の出身地だったので、清では満州は清の領土だった。また、中華民国ができた後も、中華民国が清の領土を引きつぐことになったので、国際社会からは満州は中華民国の領土だと見なされていた。
 
このような背景があるので、日本は直接は満州を支配せず、張作霖などを通して満州への影響力をもっていた。
 
満州の実効的な支配をめぐって、日本の軍部と蒋介石と張一族などの軍閥とが、あらそった。
 
満州の住民は、だれも支配者を選挙で選んでいない。日本の進出が満州住民からは選挙で選ばれてない。また蒋介石の満州進出の方針も、べつに満州住民から選挙で選ばれたわけではないし、張一族も満州住民から選挙されてはいない。
 
日本は、はじめは、まだ満州を占領していない。そもそも満州に日本軍をおくようになったキッカケは、日露戦争の勝利によって、鉄道などの権益をロシアから日本がゆずりうけ、その権益をまもるために満州に日本の軍隊がおかれたのであった。
 
よって、そもそも日本政府は満州の領有をめざしていなかった。このため、満州事変をおこしたのは、けっして日本政府の命令ではなく、現地の日本軍の軍人が勝手に満州事変を行ったのである。
 
=== 満州事変 ===
満州現地の日本軍の関東軍(かんとうぐん)は、軍閥や国民党よりも先に満州を占領しようと考えた。
 
[[ファイル:Kanji Ishiwara2.JPG|thumb|200px|left|石原莞爾(いしはら かんじ)]]
[[File:Puyi-Manchukuo.jpg|thumb|right|200px|溥儀(ふぎ)]]
 
そのために、南満州鉄道(みなみ まんしゅう てつどう)の線路を関東軍が爆破しました。この自作自演の事件を 柳条湖事件(りょうじょうこ じけん) といいます。
 
関東軍は、この柳条湖事件を中国側のしわざだと断定し、奉天などの都市を占領し支配下においた。
 
そして1932年に、日本軍は満州国の建国を宣言した。
 
日本の新聞や世論は、満州国の建国を支持した。
 
しかし、満州は表向きは独立国とはいうものの、満州の政治は日本人がおこなっており、実際は満州は日本の領土のような状況であった。
このことから、第二次大戦後の日本の歴史教科書では、満州国のことを傀儡(かいらい)政権とか傀儡国家などと言われることが多い。傀儡(かいらい)とは、操り人形(あやつりにんぎょう)のことである。
 
{{-}}
{| class="wikitable" style="float:right"
|+ 中国との戦争中のできごと
| 年 || おもなできごと
|-
| 1931 || 満州事変
|-
| 1932 || 満州国が成立<br />同じ年に、日本で軍人たちが大臣らを殺害する事件(五・一五事件)が起きる
|-
| 1933 || 国際連盟、満州国の独立を認めないと決議する<br />日本は国際連盟を脱退する
|-
| 1934 || 日本、満州国に皇帝・溥儀(ふぎ)を就任させる
|-
| 1936 || 日本で軍人たちが大臣らを殺害する事件(二・二六事件)が起きる
|-
| 1937 || 日中戦争が始まる<br />日本軍はペキンやナンキンなどを占領する
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| 1941 || 日本が、アメリカ・イギリスなどを相手に戦争(太平洋戦争)を始める
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| 1944 || 空襲(くうしゅう)がはげしくなり、集団疎開(しゅうだん そかい)が始まる
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| 1945 || 広島と長崎に原爆が投下される<br />日本が敗戦(はいせん)をみとめ、戦争が終わる
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このとき日本本土(ほんど・・・満州や朝鮮などの「外地」に対し、本州などを「本土」と言う。)の政府は、中国とは戦争をしない方針だった。なぜかというと、イギリスが中国を支持していたため、イギリスと戦争したくない日本政府も中国とは戦争しない方針だった。
 
しかし、満州の日本人居留民への中国人からの暴力事件などがあいつぎ、日本の世論が中国と協調しようとする日本政府を弱腰だと批判したこともあり、このような背景のもと陸軍は事変を強行して満州を占領をしていき、満州国の建国を宣言した。そして、清朝の最後の皇帝であった 溥儀(ふぎ) を、満州国の元首(げんしゅ)にさせた。
 
この一連の満州国の建国にいたるまでの事件および前後の事件を <big>'''満州事変'''</big>(まんしゅう じへん) という。
 
満州事変では、宣戦布告(せんせん ふこく)が無いので、「戦争」とは言わずに「事変」(じへん)と言います。
 
* 五・一五事件(ご・いちご じけん)
[[ファイル:May 15 Incident.jpg|thumb|700px|五・一五事件を報じる朝日新聞]]
このころ(1932年)、日本政府は満州の問題を、中国との話し合いで解決しようとしていた。しかし1932年の5月15日、日本海軍の一部の青年将校らが総理官邸に乱入して、首相の'''犬養毅'''(いぬかい つよし)を殺す事件をおこした。この一部の海軍軍人が首相を殺害した殺人事件を <big>'''五・一五事件'''</big>(ご・いちご じけん) と言う。
 
犯人の軍人たちは、法律で処罰されることになりましたが、当時は政党の評判が悪く、世論では刑を軽くするべきだという意見が強くなりました。そのため、犯人の軍人への刑罰は軽いもので済みました。このような決定のせいで、軍人による、政治に圧力をくわえるための事件が、ふえていくことになります。
 
犬養毅のあとの首相は、しばらく軍人出身や官僚出身の首相がつづき、第二次世界大戦のおわりまで政党出身の首相は出なくなった。現在(2019年)の学校教科書などでは、このような理由もあり、五・一五事件で政党政治が終わった、と言われています。
 
=== リットン調査団 ===
[[File:Lytton Commission in Shanghai.jpg|thumb|left|300px|中華民国の上海に到着(とうちゃく)したリットン調査団]]
[[File:Lytton Commission at railway.jpg|thumb|300px|柳条湖付近での満鉄の爆破地点を調査しているリットン調査団。]]
[[ファイル:2ndEarlOfLytton.jpg|thumb|300px|リットン。第2代リットン伯爵(リットンはくしゃく)、ヴィクター・ブルワー=リットン Victor Bulwer-Lytton]]
中国政府は、日本の満州での行動は不法である、と国際連盟にうったえた。そして、国際連盟による調査がおこなわれることになったので、イギリス人の リットン を委員長とする調査団の <big>リットン調査団</big>(リットンちょうさだん、英:Lytton Commission) が満州におくられた。
 
そして、リットン調査団は、日本と中国の両国がうけいれられるようにと、日本の権益をまもるための警備行動をみとめつつ、中国の領土として満州を自治共和国にするという、日中両国に気を使った提案(ていあん)をした。
 
しかし、日本の世論および政府は、リットン報告書(リットンほうこくしょ、英:Lytton Report)の日本に有利である意図を理解せず、報告書が満州国の建国をみとめるべきでないと主張してることからリットン報告を日本に不利な内容とおもい、報告書の提案に反発しました。
 
日本から国際連盟におくられた全権の松岡洋介(まつおか ようすけ)は脱退に反対し、収集のための連盟での演説に努力をした。
 
しかし、この間にも、満州では陸軍が占領地を拡大していき、日本は国際的な信用をうしないました。、日本は国際的に孤立していき、ついに日本は1933年(昭和8年)3月に国際連盟から脱退しました。
 
なお、日本と中国とのあいだで、1933年5月には停戦協定がむすばれ、満州事変は、ひとまずは、おわった。
 
建国後の満州国は、日本からの投資もあり好景気になって経済や工業が発展していき、工業国になっていき、満州では自動車なども生産できるようになった。
 
 
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== 日中戦争 ==
1937年7月、北京(ペキン)にある盧溝橋(ろこうきょう)という地区で訓練中の日本軍に、何者からか、数発の銃弾(じゅうだん)が日本軍へと打ち込まれ、戦闘になりました。この事件を<big>盧溝橋事件</big>(ろこうきょう じけん)といいます。
 
そして、これを口実に日本は軍をさらに送り、事実上の戦争になりましたが、当時は「北支事変」(後に{{ruby|支那|しな}}<ref>当時、日本は中国のことをこのように呼んでいました。'''現在は中国をけいべつするために使う言葉とされているので使用しません'''。</ref>事変)と呼びました。もし日本が宣戦布告をすると、日本は、中立国のアメリカからの輸入をできなくなるので、「戦争」とは言わずに「事変」という用語をもちいたのです(中国側も同様の理由で「事変」という語を用いませんでした)。この戦闘をもって、<big>日中戦争</big>(にっちゅうせんそう)の始まりと考える日本の学説や教科書もあります。
 
なぜ盧溝橋に日本軍がいたかというと、義和団の乱の事後処理について1901年にむすばれた北京議定書に基づいて、日本軍などの外国軍が、この盧溝橋の周辺に駐留(ちゅうりゅう)していた。
 
とりあえず、小学生がおぼえておくべきことは、
:盧溝橋事件で日本軍へ向けて発砲が起きたこと。
:日本軍は、これを中国軍による攻撃と考え、兵を動かした。
:結果、結果的には、日本軍と中国軍との戦闘がおきたこと。
 
小学校の段階では、「盧溝橋事件をきっかけに、日中戦争が起きた」とおぼえておけば、じゅうぶんだろう。
 
[[File:Second Sino-Japanese War WW2.png|thumb|600px|1940年の日中戦争での戦場。 (赤いところが日本が占領した場所。)]]
その後、上海でも戦闘が始まり、日本と中国とは全面的な戦争に入っていきます。そして12月には、日本軍は中華民国の首都の南京を攻略しました。(おそらく日本は首都の南京をおとせば蒋介石が降伏するだろう、と考えたのだろう。)国民党の支配者の蒋介石は、日本軍の南京の攻略の前に、すでに南京から脱出しており、日中戦争は、つづいた。
 
南京攻略のとき、日本軍が中国の民間人や捕虜を多数殺害しました。これは1937年12月から1938年初めごろまでの事件を <big>南京事件</big>(ナンキンじけん)<ref>南京{{ruby|虐殺|ぎゃくさつ}}事件ともいいます。被害にあった規模は様々な研究があります。この事件は1938年初めごろには欧米のマスコミで報道され、日本軍にたいする非難が高まりました。当時の日本のマスコミは軍によってコントロールされていたため、報道されることはなく、大多数の日本人は戦後にこの事件について知りました。</ref>といいます。
 
この日中戦争では、ソビエトやアメリカ、イギリス、フランスは、中国に軍事物資などを援助していて、中国側を支持していた。アメリカは、おもに中国の国民党を援助した。アメリカは援助にとどまり、まだ、戦闘には参加していない。
 
いっぽう、ソビエトは、おもに中国の共産党を援助した。
 
南京攻略後には、日中のあいだでドイツを仲介(ちゅうかい)にした和平のための和平工作もあったが、日中両国の両国内での強硬派の意見もあり和平はまとまらず、日中戦争はつづいていく。
 
=== 日本の戦時体制 ===
日本政府は、1938年には、国会の手続きがなくても戦争に必要な物資や人が動かせるように、<big>国家総動員法</big>(こっか そうどういんほう)を定めた。
 
戦争が長びき、日本では物資が不足したので、1941年からは米や日用品などは<big>配給制</big>(はいきゅうせい)になった。
 
「ほしがりません、勝つまでは」とか「ぜいたくは敵(てき)だ」とか「石油の一滴、血の一滴」とか「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」とかの標語が、戦時下の日本では言われた。
 
<gallery>
Image:Luxury is our enemy.JPG|「ぜいたくは敵だ!」
Image:Advance All Japanese people are 100 million balls of fire.JPG|「進め一億火の玉だ」
</gallery>
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<references />
 
== 第二次世界大戦と太平洋戦争 ==
=== 第二次世界大戦 ===
[[ファイル:Second world war europe 1939 map de.png|thumb|700px|ドイツとソビエトのポーランド侵攻直後(1939年)<br>青いところがドイツ。<br>緑色が、ソビエトの勢力。<br>赤いところがイギリスやフランスの勢力。]]
[[ファイル:Second world war europe 1940 map de.png|thumb|500px|ドイツのフランス占領(1940年)<br>青いところがドイツ。水色のところが、最終的にドイツに占領された場所。<br>緑色が、ソビエトの勢力。<br>赤いところがイギリスの勢力。]]
中国で日中戦争が行われているころ、ヨーロッパでは、ドイツ・イタリアと、イギリス・フランスとの間に1939年に戦争が起きた。この1939年のドイツとイギリス・フランスとの戦争に、アジア地域で行われていた日中戦争をくわえて、<big>第二次世界大戦</big>(だいにじ せかいたいせん,英語: World War II)と言う。
 
アメリカはイギリスの援助にとどまり、まだ、この1939年のときには、アメリカは戦闘には参加していない。
 
きっかけは、ドイツが1939年9月にポーランドに侵攻したことで、ポーランドと同盟を結んでいたイギリスとフランスが、ドイツに宣戦布告した。
こうして<big>第二次世界大戦</big>(だいにじ せかいたいせん)が始まった。
 
いっぽう、ソビエトは事前の1939年8月にドイツと独ソ不可侵条約(どくソ ふかしん じょうやく)をむすんでいた。ソ連はポーランドの東部を占領し、ドイツとソビエトでポーランドの東西を分割した。またソ連はフィンランドを侵略した。
 
そのあと、ドイツは、デンマークやノルウェーなどを侵略し、ヨーロッパの多くの地域を占領した。
そして、1940年にはドイツはフランスを占領した。
 
 
いっぽう、中国大陸では、日中戦争がつづいていた。
 
日本は、ドイツが勝利をつづけていることから、1940年にドイツとイタリアと同盟を結んだ。
 
すでにドイツとイタリアが同盟をむすんでいたので、これに日本も加わった<big>日独伊三国軍事同盟</big>(にちどくい さんごく ぐんじどうめい、独:Dreimächtepakt、伊:Patto tripartito)が1940年に結ばれたのである。<big>日独伊三国同盟</big>(にちどくい さんごく どうめい)とも言う。
 
:(※ 小中高の教科書を確認したところ、「日独伊三国軍事同盟」と「日独伊三国同盟」のどちらとも用いられる。)
 
この日独伊三国同盟によって、イギリスは、日本の敵側になった。(フランスは、この時点ではドイツに占領されているので、はぶいた。)
 
また、アメリカはイギリスを支持していたので、日本とアメリカとの関係は悪くなった。
 
 
すでに1936年に、共産主義国であるソビエトに対抗するための、日独防共協定(にちどく ぼうきょうきょうてい、ドイツ語: Antikominternpakt)が日本とドイツとの間に、むすばれていた。また1937年11月にはイタリアが加入した日独伊防共協定(にちどくい ぼうきょうきょうてい)が結ばれていた。
 
しかし1939年にはドイツとソビエトとの間で、独ソ不可侵条約(どくソふかしん じょうやく、英: German-Soviet Nonaggression Pact)が、むすばれた。これによって、防共協定は、いったん、実効性(じっこうせい)が、なくなった。
 
しかし、日本とドイツはふたたび協力しあうことになり、1940年に日独伊三国軍事同盟が、むすばれたのである。
 
=== 太平洋戦争 ===
日本は、石油を輸入にたよっていた。石油がないと、軍艦などが動かせません。
 
しかし、日本は、油田を持つインドネシアを植民地に持つオランダとの交渉に失敗し、石油をアメリカからの輸入にたよっていた。
この当時、まだインドネシアは独立していなくて、「オランダ領東インド」(オランダ語:Nederlands-Indië、英語:Dutch East Indies)というオランダの植民地であった。
 
石油などの資源を確保するため、日本は東南アジアに進出しようと考え、今のベトナムやラオスやカンボジアのあたりの地である、フランス領インドシナに日本は軍をすすめました。(当時、まだベトナムやラオスやカンボジアは独立していなくて、フランスの植民地であった。)
 
 
これに対して、アメリカは、日本への石油の輸出禁止にふみきった。
 
アメリカにくわえ、オランダやイギリスや中国も、同様に日本への輸出を制限していたので、日本はこれを「ABCD包囲網」(エービーシーディー ほういもう)と読んだ。ABCDとはアメリカ(America)、イギリス(Britain ブリテン)、中国(China チャイナ)、オランダ(Dutch ダッチ)の4カ国のことである。
 
現代(2014年に記述。)では「ABCD包囲陣」(エービーシーディー ほういじん)とも言う。(英語表記は、ABCD line、または ABCD encirclement)
 
 
まだ、アメリカとは戦闘は始まってません。
 
日本は、アメリカと交渉をしました。しかし、アメリカからきびしい要求をつきつけられました。このときのアメリカからの要求を「ハル・ノート」(英:Hull note)と言う。アメリカの国務長官のコーデル・ハル(Cordell Hull)の名が由来。
 
 
ついに日本はアメリカとの戦争に、ふみきりました。
 
[[ファイル:USS West Virginia;014824.jpg|300px|thumb|left|真珠湾攻撃で炎上中のアメリカ海軍の軍艦。戦艦(せんかん)ウェストバージニア。]]
 
日米戦争の開戦のときの日本の首相は、<big>東条英機</big>(とうじょう ひでき)です。
[[ファイル:Hideki Tojo.jpg|thumb|150px|東条英機(とうじょう ひでき)]]
[[ファイル:Second_world_war_asia_1937-1942_map_de.png|thumb|430px|日本による占領地域の拡大(1937年から1942年)]]
 
1941年の12月8日に、日本海軍がアメリカのハワイの真珠湾(しんじゅわん、 英:Pearl Harbor パールハーバー )にあるアメリカ海軍の基地を奇襲攻撃したことで、 <big>太平洋戦争</big> (たいへいよう せんそう)が始まります。真珠湾攻撃(しんじゅわん こうげき、英語:Attack on Pearl Harbor)などの、日本を中心とした太平洋方面の戦争を、太平洋戦争(たいへいよう せんそう,英語:Pacific War または Asia-Pacific War)と言う。
 
この真珠湾攻撃では、航空機を利用したアメリカ軍基地やアメリカ軍艦への爆撃が、大きな戦果をあげました。なので、真珠湾攻撃の以降、日米の海軍では、航空機が重視されるようになります。なお、戦争用の航空機を運ぶための軍艦のことを、空母(くうぼ、英:carrier)と言います。
 
 
この奇襲攻撃のあと、アメリカ政府は日本の外交官から日本の宣戦布告の知らせを聞いた。このため、アメリカ国内では、日本の奇襲攻撃は、だましうちだとして、アメリカで反日的な意見が強まっていった。
 
 
*「大東亜戦争」という、よびかたについて
当時、日本では、この太平洋方面の戦争のことを「大東亜戦争」(だいとうあ せんそう)と言ってたが、戦後になり戦勝国のアメリカが「大東亜戦争」の用語は軍国主義であると考え使用が禁止されたので、それからは太平洋戦争という表現がつかわれるようになった。
 
歴史学者の中には、「アジア・太平洋戦争」という用語を用いる人もいる。だが、べつに「アジア・太平洋戦争」という用語を学校の歴史の授業で用いるべきと決めたような日本国民の合意も法律も無い。
 
小学校のテストでは、この太平洋方面の戦争についての名前のことは「太平洋戦争」という表記を書いておけば、とくに問題はないだろう。
 
:(※ 小中高の検定教科書を確認したところ、「太平洋戦争」(The Pacific War)と「大東亜戦争」(Great East Asia War)と「アジア太平洋戦争」のどちらとも用いられることを確認してある。2014年に記述。<br>第二次大戦後は「太平洋戦争」という呼びかたが一般化したので、本書では、とくに断らないかぎり「太平洋戦争」という呼びかたという呼びかたを用いる。)
 
 
* 枢軸国(すうじくこく)と連合国(れんごうこく)
日本とドイツとイタリアの3カ国のことを枢軸国(すうじくこく、英語: Axis Powers、ドイツ語: Achsenmächte)という。いっぽうアメリカ、イギリス、フランス、ソビエト、中国の陣営を連合国(れんごうこく)と言う。
 
第二次世界大戦は、ドイツとイタリアと日本との枢軸国(すうじくこく)という陣営(じんえい)が、イギリスとフランスとソビエトとアメリカと中国という連合国(れんごうこく)という陣営とたたかう、戦争になった。
 
第二次世界大戦で、日本と戦った相手の国について、よく勘違いされやすいことがあるので、注意点をいくつか書きます。
:・ 日本は、韓国とは戦争をしていません。そもそも朝鮮は日本に併合されていたので、韓国という国は当時は、ありません。朝鮮は日本の側である枢軸国の側です。戦後、韓国が日本から独立したこともあって、まぎらわしいですが、少なくとも太平洋戦争では日本と韓国とは戦争していません。
:・ 日本は、台湾(タイワン)とは戦争をしていません。当時、台湾島は日本国の一部です。
:・ 現代のインドネシアやベトナムやタイやミャンマーなどの、東南アジアの国は、当時はありません。当時、東南アジアは、オランダやフランスなどのヨーロッパの国の植民地でした。東南アジアの地域の先住民たちは独立を望んでいたので、植民地政策を行って先住民を支配しているオランダなどの国は、先住民たちの敵でした。<br>先住民と日本は、オランダやフランスなどを敵と考え利害が一致したので、先住民たちの多くは日本の側に協力しました。このことが、戦後の東南アジア各国の独立に、つながっていきます。
 
 
日米戦争の開戦のはじめごろは日本が有利だった。だが、1942年にミッドウェー海戦(ミッドウェーかいせん)で、日本はアメリカに負けます。このミッドウェー海戦の以降、アメリカに有利になり、日本は不利になります。
 
なお、日本政府では、戦局(せんきょく)の悪化にともない、首相の東条英機の指導力をうたがう意見が強くなり、マリアナ沖海戦での敗退やサイパンの敗退などがつづき、東条は議会の政治家からの支持も失い、東条内閣は総辞職に追い込まれる。
そして東条内閣のつぎには、1944年(昭和19年)7月22日から小磯國昭(こいそ くにあき)を首相とする小磯内閣(こいそないかく)が誕生し、1945年(昭和20年)4月7日まで小磯内閣がつづいた。
 
=== 大東亜共栄圏 ===
[[ファイル:1943 Tokyo conference.jpg|thumb|400px|大東亜会議の出席者]]
日本は、資源がすくなかったので、資源を確保するために、東南アジアに日本軍が進出しました。日本軍は、東南アジア現地のオランダ軍やイギリス軍などと戦いました。
 
そして、東南アジアを欧米の支配から解放し、東南アジアにアジア諸民族たち自身の勢力地である <big>大東亜共栄圏</big>(だいとうあきょうえいけん) を設立するということが、戦争の表向きの目的として、かかげられました。そのため、最初は日本軍が来たことを歓迎する人も多かったのですが、日本は占領した土地でも資源をうばったり、強制労働をさせたり、日本に協力的ではない人をきびしく取りしまったりしました。やがて、そうした政策への反発から日本の支配に反対する運動がおこりました。
 
==== 朝鮮半島や台湾 ====
いっぽう、第二次世界大戦が始まったころ、朝鮮では、朝鮮の人々の名前を、日本風の名前に改めることを勧める政策が行われました。この政策を'''創始改名'''(そうし かいめい)といいます。
 
また、日本国内で、徴兵のため、それまで日本で働いていた日本人の労働者が足りなくなったので、朝鮮半島や台湾から、朝鮮の人々を労働者として日本に連れてきて、日本の工場や鉱山などで働かせました。きびしい労働だったと言われています。
 
戦争の終わりごろには、朝鮮や台湾でも徴兵を行い、朝鮮や台湾の人々も、日本軍の兵士として、戦場に送られました。
 
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=== 日本の敗戦へ ===
第二次大戦の戦況は連合国に有利にすすみ、枢軸国のドイツ・イタリア・日本は不利になっていった。まず、1943年にはイタリアが降伏した。
そして、1945年5月にはドイツが降伏(こうふく)した。
 
* 学徒出陣
[[Image:Gakuto shutsujin.jpg|thumb|400px|学徒出陣(1943年(昭和18年)10月21日)]]
戦争で日本が不利になるにつれて、兵士が足りなくなっていった。そして1943年には、それまで徴兵(ちょうへい・・・兵士として、動員すること。)をされていなかった文科系(ぶんかけい)の大学生も、兵士として動員された。これを学徒出陣(がくと しゅつじん)という。(理科系の大学生は、徴兵されなかった。)
 
[[Image:Military training courses at Osaka Municipal Commercial College.JPG|thumb|250px|大阪高等商業学校(現・大阪市立大学)での軍事教練]]
また、学生を兵士として育てるため、小学校から中学・高校・大学まで、日本中の学校で、軍事教練(ぐんじ きょうれん)が行われました。
 
 
* 勤労動員(きんろう どういん)
 
 
* 空襲(くうしゅう)と疎開(そかい)
ミッドウェー海戦で日本が敗れると、戦争はアメリカに有利に進んでいきます。そしてアメリカ軍がサイパン島を占領すると、このサイパン島から飛び立ったアメリカ軍の爆撃機(ばくげきき)のB29によって、日本の各地が空襲で攻撃されるようになります。
 
とくに、都市が空襲の目標になることが多かったので、都市に住んでいる子どもたちは、空襲の危険からのがれるため、両親からはなれて地方へと移り住む(うつりすむ)、集団疎開(しゅうだん そかい)を させられました。
 
 
* 東京大空襲(とうきょう だいくうしゅう)
[[File:After Bombing of Tokyo on March 1945 19450310.jpg|thumb|400px|東京大空襲で焼け野原となった東京。]]
1945年3月10日の<big>東京大空襲</big>(とうきょう だいくうしゅう、英:Bombing of Tokyo)では、約10万人の人が亡くなった。
 
民間人への爆撃である無差別爆撃(むさべつ ばくげき)は、戦時国際法(せんじ こくさいほう、英: Law of War)に違反している。
 
* 沖縄戦(おきなわせん)
1945年4月1日には、アメリカ軍が沖縄(おきなわ)本島(ほんとう)に上陸し、地上戦になった。
沖縄県民の10万人以上が亡くなりました。アメリカ軍は沖縄を侵略(しんりゃく)した。
 
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* 原子爆弾(げんしばくだん)
[[ファイル:Nagasakibomb.jpg|thumb|left|170px|長崎に投下された原子爆弾のキノコ雲<br/>1945年8月9日]]
[[ファイル:AtomicEffects-Hiroshima.jpg|thumb|420px|原爆投下後の広島のようす。]]
アメリカは1945年の8月6日に広島に原子爆弾(げんし ばくだん、 略して原爆(げんばく)とも言う。 )を おとした。広島の街は一瞬で破壊され、広島では10万人をこえる一般市民が亡くなった。また9日には長崎に原子爆弾がおとされた。長崎では8万人ほどが亡くなった。
 
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* ソ連の参戦
8月8日、ソビエトは日ソ中立条約をやぶって満州に攻め込んだ。
 
* ポツダム宣言
日本は、アメリカ・イギリス・中国(中華民国)・ソビエトの代表が決めた日本の降伏の条件である <big>ポツダム宣言</big>(ポツダムせんげん、英語: The Potsdam Declaration) を受け入れ、1945年の8月14日に、日本は降伏した。
 
1945年(昭和20年)の8月15日には、ラジオ放送で昭和天皇が国民に、日本の降伏を発表した。このときのラジオ放送を<big>玉音放送</big>(ぎょくおん ほうそう)と言う。
 
こうして日中戦争や太平洋戦闘をふくむ第二次世界大戦は、おわった。
 
* 韓国の独立
いっぽう、かつて日本に併合されていた朝鮮半島では、1945年9月2日に、北緯(ほくい)38度線をさかいに、線の北にはソ連軍が進出してソ連に占領され、また朝鮮半島の南半分にはアメリカ軍が進出してきた。1948年に朝鮮半島で半島の南側には大韓民国(だいかん みんこく)が独立し、同じ年に半島の北側では北朝鮮(「きたちょうせん」、正式名称は朝鮮民主主義人民共和国(ちょうせん みんしゅしゅぎ じんみん きょうわこく) )が独立する。
 
* 満州国の消滅
満洲はソ連軍の軍政下に入り、そのあと中華民国に渡された。
 
* シベリア抑留(よくりゅう)問題
ソビエトは1945年の8月8日に満州に侵攻し、ソ連軍は攻撃や略奪(りゃくだつ)をおこなった。ソビエト軍につかまった日本人は、軍人や民間人をとわず、満州にいた日本人はシベリアなどのソ連領に連行されて、奴隷(どれい)のような労働力として日本人が酷使(こくし)された。( シベリア抑留(よくりゅう)問題 )
 
このため、6万人以上の日本人が死亡しました。
 
このソ連によるシベリア抑留は、ポツダム宣言に違反した行為である。ポツダム宣言の条件文は、日本への条件だけでなく、戦勝国どうしにも条件をつけている宣言であり、その約束にソ連は違反しているのである。ポツダム宣言の第9項目では、武装解除した日本兵は日本に送りかえすことを、連合国どうしで約束しているのである。
 
 
* 台湾
台湾は、中華民国に編入された。
 
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* 各国の第二次世界大戦での犠牲者(ぎせいしゃ)
 
: 中国 - 約1000万人
: 朝鮮 - 約20万人
: ソ連 - 約2000万人
: 日本 - 約310万人、そのうち軍人が約230万人、民間人が約80万人、
 
その他、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、東南アジアなどで犠牲者が多数
 
== アメリカ占領下の日本 ==
[[ファイル:Macarthur hirohito.jpg|thumb|アメリカ大使館でのマッカーサー(左側の人物)と昭和天皇(右側)(1945年9月27日フェレイス撮影3枚中の1枚)]]
1945年8月に日本が降伏し、日本は、アメリカ軍を中心とした連合国軍に占領されます。ポツダム宣言にもとづき、日本の民主化政策を実行します。
 
日本政府は、敗戦後も残りましたが、政府の上にアメリカ軍を中心とした<big>連合国軍総司令部</big>(れんごうこくぐん そうしれいぶ)・英語の略称で<big>GHQ</big>('''ジー・エイチ・キュー'''、General Headquarters ゼネラル・ヘッドクォーターズ の略)があるという、政治のしくみになりました。GHQの最高司令官は<big>マッカッサー</big>というアメリカ軍人です。
 
ただし、沖縄や奄美(あまみ)や小笠原諸島(おがさわら しょとう)では、アメリカが直接、統治することが決まっていました。
 
* 東京裁判(とうきょう さいばん)
戦争を指導した人間は、戦争犯罪人(せんそうはんざいにん)として、裁判にかけられて、東条英機など7名が死刑になった。この戦争指導者への裁判を東京裁判(とうきょうさいばん)あるいは極東国際軍事裁判(きょくとう こくさい ぐんじさいばん)と言いいます。
 
=== 戦後の改革と日本国憲法 ===
[[File:あたらしい憲法の話 三原則.png|thumb|当時の文部省の社会科教科書『あたらしい憲法のはなし』での日本国憲法の三原則を表した挿し絵。]]
[[File:あたらしい憲法のはなし 戦争放棄.png|thumb|当時の文部省の社会科教科書『あたらしい憲法のはなし』での戦争放棄の原則を表した挿し絵。]]
* 日本国憲法(にほんこく けんぽう)
1946年には、あたらしい憲法の<big>日本国憲法</big>(にほんこく けんぽう)が交付された。
この日本国憲法はGHQがつくった憲法案を、修正して議会が採択したものである。
 
この新憲法の日本国憲法では、 <big>国民主権</big>(こくみんしゅけん) ・ <big>基本的人権(きほんてきじんけん)の尊重(そんちょう)</big> ・ <big>平和主義</big>(へいわしゅぎ) の3つの原則が掲げられた。
 
戦時中に政治犯として捕まっていた人などは釈放されるなどして、表向きは、アメリカの占領による言論の自由が、かかげられた。
 
民主的な政策も、占領下の改革では行われた。たとえば、以下のような改革が行われた。
 
:・ 治安維持法の廃止。
:・ 選挙権を拡大し、女性もふくむ、20才以上の男女に選挙権を与えた。
:・ 家族における、家父長制(かふちょうせい)の廃止。それまでは、父親や長男が特別に強い権限を持っていた。しかし、家父長制を廃止する改革により、戦後は、夫婦の権利は平等になり、また兄弟の権利は平等になった。
:・ 農地改革 <br>「農地解放」(のうちかいほう)と称して、農業の地主から土地の多くを取り上げ、その土地を小作人に与えられた。占領軍は、農業の地主と小作人の関係を封建的な関係と思ったようで、その封建的な関係が、軍国主義を助長した、と考えたようである。この農地解放は、政治的には、日本国民からの人気の多い政策だった。<br>だが、皮肉なことに、その後の時代の農業では機械化が進んでいったこともあり、大きな農地のほうが生産が有利になっていく。いっぽう、農地解放で小さな土地しかもたない農民がふえたことで、農業の生産性が低下した。<br>また、じつは、農地改革は戦前から日本政府が考えていた政策であった。真相は、日本政府が占領軍の権威をもちいて農地改革を実行しただけだった。
 
:・ 国会では貴族院が廃止され、国会議員はすべて国民からの選挙で選ばれるようになり、また議院は衆議院(しゅうぎいん)と参議院(さんぎいん)の二院制になった。
 
* 「経済の民主化」
::・ 財閥解体(ざいばつ かいたい)<br>占領軍は、日本の財閥について、戦前に財閥が経済を支配しており、そして財閥による経済支配で戦争の総動員体制に協力したと考えた。なので、「経済の民主化」などと称して、財閥が複数の会社に分割させられた。
 
* 「教育の民主化」
::・ 軍国主義的と思われる教育が禁止された。一般の学校での軍事教練なども禁止された。
 
::・ 教育勅語(きょういく ちょくご)の廃止により、教育の反・国家主義化が行われた。
 
そのほか、教育に関しては、義務教育が小学校6年・中学校3年の、9年間の義務教育になった。
また、教育基本法や学校教育法が定められた。
 
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=== 戦後の学校 ===
* 青空教室
空襲などで、学校の校舎(こうしゃ)が焼けてしまったので、終戦後には、授業を校庭などで行うことが多かった。このような、戦後の、外での授業のことを'''青空教室'''(あおぞら きょうしつ)という。
 
* 墨ぬり教科書
戦後になり、戦前の教科書の記述の一部は軍国主義的であるとして、戦後の教育には不適切だと考えられたので、新しい教科書ができるまでの間、それまでの教科書の記述の一部に、墨ぬりが行われた。これを '''墨ぬり教科書'''(すみぬりきょうかしょ) という。
 
=== 戦後の生活 ===
(未記述)
 
== 戦後の国際社会 ==
* 国際連合
第二次大戦のときにあった連合国(United Nations ユナイテッド・ネイションズ)は、第二次大戦の戦後には、あらたな戦争をふせぐために国際政治を話しあう国際機関として1945年に作りかえられた。
 
 
この連合国の国際機関としての変化はアメリカのルーズベルト大統領の提案による。
 
 
その国際政治を話しあう場所に変化した連合国の機構が、現在(西暦2014年に本文を記述)の<big>国際連合</big>(こくさいれんごう、英:United Nations ユナイテッド・ネイションズ)である。
 
日本では、国際連合のことを、国連(こくれん)と略すことも多い。
 
国連の本部は、アメリカのニューヨークにある。
 
 
この国際連合(こくさいれんごう)は、戦前にあった国際連盟(こくさいれんめい、League of Nations)とは、べつの組織である。(たとえば、国際連盟League of Nations の本部はスイスのジュネーブにあった。)
 
 
英語では、戦時中の連合国と、戦後の国際連合は、同じ United Nations ユナイテッド・ネイションズ である。
たとえば中国語では、「联合国」と言う。日本語の「連合国」と、同じ由来の字である。
 
 
戦争中の連合国の同盟を元に国際連合をつくったのではなく、そもそも同じ組織である。
同じ組織なので、英語では同じ United Nations ユナイテッド・ネイションズ である。
 
「連合国」と「国際連合」というように名前を変えているのは、日本国が勝手に名前を変えて呼んでいるだけにすぎない。
 
また、主要国が国際政治をはなし合う場所を国際連合にかえたことで、前にあった国際連盟は、自然に消えた。
 
 
国際連盟の常任理事国は、第二次大戦の連合国の主要国である。国際連合の常任理事国は、アメリカ・イギリス・フランス・ロシア・中国の5か国である。
 
国際連合は、平和をまもるために話し合いをする機関ということになったが、その「平和」とは、戦勝国にとって都合の良い平和にすぎなかった。
 
また、戦時中の連合国が元になってるので、日本やドイツを「敵国」として認定する旧敵国条項(きゅうてきこくじょうこう)が、今(本文を2014年に記述)でも残っている。
 
なので、中立国であるスイスは2002年まで国際連合には加盟しなかった。
 
 
現在の学校の社会科の教育は、この占領の時期につくられた教育内容が手本になってるので、学校教科書や参考書には、占領軍の言い分を無批判に採用している教科書も多い。
 
そのようなことが教育問題にもなっており、1990年代には、社会科の教科書を改革するために社会科の学校教科書をつくろうという運動もおこされるようになった。
 
 
日本では、軍隊の買いたいと同じころに、民主化をすすめるための改革が行われたので、民主主義と非武装を混同する意見が日本では強まった。
「軍隊があると、民主的でない」、「徴兵制は民主的でない」というような混同が、日本国内では強まった。
 
もちろん、この混同は、あやまった発想である。
 
なぜなら、世界には、徴兵制のある国も存在する。たとえば大韓民国には徴兵制がある。
イスラエルにも徴兵制がある。
そして、大韓民国もイスラエルも、アメリカの同盟国である。
アメリカは民主主義の国である。そもそも戦後の日本の占領時期の「民主化」が、アメリカによって命令されたものである。
 
もし徴兵制が民主主義でないならば、アメリカは民主主義でない韓国やイスラエルと同盟を結んでいることになる。
 
なお、スイスにも徴兵制がある。徴兵制が民主的でないならば、国際連盟の本部のあるスイスは民主的でないことになるから、国際連盟の本部は民主的でないことになる。
 
 
* 冷戦(れいせん)
第二次大戦後、世界の国々は、アメリカやイギリスを中心とする「西側」の陣営と、ソビエトを中心とする「東側」の陣営にわかれました。「西側」とか「東側」とは、ヨーロッパを中心とした地図での話だからです。ソビエト連邦のあったロシアはヨーロッパの東側にあるし、またヨーロッパ東部にはロシアに占領された地域が多かったので、このような呼び名になりました。
 
いっぽう、アメリカは、ヨーロッパから見れば大西洋をはさんで、西側にアメリカがあります。
 
この米英の西側陣営と、ソビエトの東側陣営との対立を「冷たい戦争」(つめたい せんそう)あるいは<big>「冷戦」</big>(れいせん、英:Cold War)と言います。じっさいには、アメリカとソ連とは、直接は戦争をしていません。ですが、まるで戦争中であるかのように対立しています。なので、熱戦ではなく、冷戦と言われてるわけです。
 
ソ連の経済の体制が、共産主義という、私有財産や私企業を認めない制度であったので、
 
冷戦は米英のような資本主義の陣営と、ソ連を中心とした共産主義の陣営との対立であるだろう、
 
というような見方をされることもあります。
 
1989年にソビエト連邦が崩壊してロシアなどのいくつかの国にわかれるまで、冷戦が続きました。
 
ソ連が崩壊したので、冷戦ではソ連が負け、アメリカが勝ちました。
 
 
 
* アジアとアフリカの独立
欧米の植民地となっていた国々では、第二次大戦後に、次々と独立運動がおこり、独立していった。
とくに東南アジアや南アジアでは、第二次大戦中に日本の支援した独立運動が戦後もつづいており、インドネシアやベトナミやインドなどの国々が独立していった。
 
 
 
* 中国の政変
 
ソビエトの支援を受けた中国共産党が、国民党と戦闘し、中国は内戦になった。そして共産党が勝利し、中国は、1949年に 中華人民共和国(ちゅうか じんみん きょうわこく) という国になった。
共産党の支配者は<big>毛沢東</big>(もう・たくとう)という人物であるので、毛沢東が中国大陸の支配者になった。
 
いっぽう、負けた蒋介石ひきいる国民党は台湾に、のがれた。
 
このため、台湾は中華民国になった。このころの中国は、「中華人民共和国」と「中華民国」との2つの中国が存在する状況になった。
 
 
 
* 朝鮮戦争(ちょうせん せんそう)
朝鮮半島では、1951年に北朝鮮が韓国に攻め込んで<big>朝鮮戦争</big>(ちょうせん せんそう、英:Korean War) がおきた。
 
 
アメリカ軍を主力とする国連軍(こくれんぐん、United Nations Force ユナイテッド・ネイションズ・フォース)が、韓国をたすけて、北朝鮮軍と戦闘。
中国は、北朝鮮をたすけて、中国は「義勇軍」(ぎゆうぐん)という名目で、じっさいには正規の部隊である中国軍をおくり、中国軍と国連軍とが戦闘した。
 
この国連軍と中国・北朝鮮軍との戦闘は、休戦協定が1953年にむすばれるまで、つづく。
 
 
* 日本の再軍備
[[Image:Military exercise of NPR1.JPG|thumb|300px|警察予備隊でのバズーカの訓練]]
朝鮮戦争により、アメリカ軍が苦しくなると、アメリカは、日本を西側の陣営にくわえようとしたので、日本の占領政策を変えました。
 
アメリカは日本に軍隊をつくらせようとしましたが、日本国憲法のしばりがあって軍隊をつくれないので、かわりに「警察予備隊」(けいさつ よびたい)という組織を日本につくらせました。
 
おそらく、「軍隊」とは呼べないので、かわりに「警察」と呼びたい、というわけなのでしょう。
 
警察予備隊の装備は、そのころの時代の軍隊の歩兵に近い銃火器を装備したり、また、警察予備隊の訓練はアメリカ軍の指導のもとにおこなわれたりなど、どう見ても軍隊としか思えない「警察予備隊」でした。
 
そのあと、警察予備隊は1952年に「保安隊」(ほあんたい)に発展し、さらに保安隊から1954年には「自衛隊」になりました。
 
 
 
日本国内では、憲法の建前上、自衛隊は軍隊ではない、ということになっていますが、外国は、そうは見てくれません。
 
たとえば、自衛隊の英訳は Self-Defense Forces セルフ・ディフェンス・フォース となってますが、Force フォース とは「軍隊」という意味です。
 
 
 
また、経済的には、日本はアメリカ軍から大量の物資の注文をうけたので、日本は好景気になった。この朝鮮戦争のときの好景気は、「特需」(とくじゅ)と言われた。
 
 
朝鮮戦争によって、アメリカは日本を西側の陣営に加えようとした。そのためアメリカは、米軍基地の存続を条件に、日本の独立をはやめようとした。
 
[[ファイル:Yoshida signs San Francisco Peace Treaty.jpg|thumb|300px|サンフランシスコ平和条約での署名式]]
[[ファイル:Shigeru Yoshida suit.jpg|thumb|200px|吉田茂(よしだ しげる)]]
そのため講和会議がひらかれることになり、1951年9月にアメリカのサンフランシスコで講和会議がひらかれた。そして日本国は、西側陣営である自由主義諸国などの48カ国とのあいだに <big>サンフランシスコ平和条約</big>(英:Treaty of Peace with Japan) をむすんだ。
こうしてアメリカ・フランス・カナダ・オランダ・ベルギー・オーストラリアなどをふくむ48カ国と平和条約が、むすばれた。
 
このころの日本の首相は、吉田茂(よしだ しげる)である。日本国は吉田茂首相を全権にして、サンフランシスコ平和条約に調印した。
 
そして翌年の1952年には、日本は独立を回復し、主権を回復した。
この条約によって、GHQは廃止された。
 
しかし沖縄は、ひきつづきアメリカの統治下におかれることになった。
 
 
なお、ソ連とは、サンフランシスコ平和条約では、講和していない。ソ連は日本の北方領土の国後島などを不法に占拠しているので、講和を見送ったのです。ソ連と日本の国交回復は、1956年の日ソ共同宣言(にっそ きょうどうせんげん)で行われます。
 
 
また、サンフランシスコ平和条約といっしょに、日本国内のアメリカ軍基地に、ひきつづきアメリカ軍がとどまるための条約である <big>日米安全保障条約</big>(にちべい あんぜん ほしょう じょうやく、英:Security Treaty Between the United States and Japan) が日本とアメリカとのあいだで、むすばれた。
略して「安保」(あんぽ)とか、「安保条約」(あんぽじょうやく)とか、「日米安保」(にちべいあんぽ)などと言う場合もあります。
 
 
 
*国際連合への日本の加盟
日本は、独立後も、しばらくは国際連合の加盟は出来ずなかった。なぜなら、常任理事国であるソ連が日本の加盟に反対していたからである。
 
しかし。1956年に日ソ共同宣言がむすばれて日本とソ連との国交が回復したこともあり、ソ連も日本の国連解明に反対をしなくなり、1956年に国際連合の加入を認められた。
日本では、この1956年の国連加盟をもって「国際社会へと復帰した。」という意見が多い。
 
ちなみに、スイスは2002年まで国際連合には加盟していない。
 
== 戦後の復興 ==
=== 高度経済成長と東京オリンピック ===
*高度経済成長(こうど けいざいせいちょう)
朝鮮戦争による特需による好景気もあり、日本経済は復興していき、工業は戦前の水準にまで、もどった。
1956年に政府が出した経済白書では「もはや戦後ではない。」とまで書かれている。
 
1950年代のなかごろから重化学工業が発達していった。
 
[[ファイル:Hayato Ikeda.jpg|thumb|200px|池田勇人(いけだ はやと)]]
1960年に、内閣の池田勇人(いけだ はやと)首相は、「所得倍増計画」(しょとくばいぞう)を目標にかかげた。
好景気により、日本人の所得は増え、1968年には所得が倍増し、目標が達成された。
この好景気は1970年代の前半まで、つづく。
 
「三種の神器」(さんしゅのじんぎ)
白黒テレビ・電気式洗濯機・電気式冷蔵庫の3つの製品が普及し、「テレビ・洗濯機・冷蔵庫」が「三種の神器」と言われた。
 
この1960年〜1970年代ころの好景気による日本の経済力の成長のことを、<big>高度経済成長</big>(こうど けいざいせいちょう)と言う。
 
 
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[[ファイル:BillyMills Crossing Finish Line 1964Olympics.jpg|thumb|left|250px|東京オリンピック。10,000メートルで優勝したミルズ(アメリカ)]]
*東京オリンピックと万国博覧会
アジアで最初のオリンピック(Olympic)が、1964年に東京で開かれた。(東京オリンピック)
 
また、東京オリンピックに合わせて新幹線(しんかんせん)もつくられ、東海道新幹線(とうかいどう しんかんせん)が開通した。
 
[[ファイル:Osaka Expo'70 Korean Pavilion.jpg|thumb|300px|大阪での万国博覧会。]]
1970年には、大阪で万国博覧会(ばんこくはくらんかい、英: Universal Exposition, 仏: Exposition universelle)が、ひらかれた。
 
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*沖縄返還
1972年に沖縄は日本に返還された。
 
 
*日中共同声明(にっちゅう きょうどう せいめい)
アメリカはソ連との冷戦を有利にすすめるため、中国大陸を支配している共産党の政府である中華人民共和国の政府と、1960年代ごろからアメリカは友好をむすんだ。
 
アメリカに軍事的に守られている日本も、このような国際的な流れに乗り、1972年の田中角栄(たなか かくえい)内閣のときに、日本は、それまで承認していた台湾の中華民国にかえて、中国大陸の中華人民共和国の政府を承認した。これにともない、日本は一方的に台湾の中華民国政府との国交を断絶した。
 
1952年に日本と国民党の中華民国とのあいだにむすばれていた日華平和条約(にっか へいわじょうやく)があったのだが、日本は一方的に、この日華平和条約を破棄(はき)したのである。
 
なお、2013年では、中華民国を国家承認している国家は22カ国である。
 
さて、1970年代の話に、もどる。
日本は台湾を無視し、人民共和国と日本とのあいだで、一方的に<big>「日中共同声明」</big>(にっちゅうきょうどうせいめい)を1972年に発表した。また1978年には、やはり台湾との友好を無視し、日本と中華人民共和国とは一方的に<big>「日中平和友好条約」</big>(にっちゅう こっこうゆうこうじょうやく)を結んだ。
 
日本では、これら一連の人民共和国との友好化のために台湾を見捨てた政策は、一方的に「日中国交正常化」(にっちゅう こっこう せいじょうか)とか「日中国交回復」(にっちゅう こっこう かいふく)などとして正当化された。
 
 
2014年の時点では、台湾の中華民国は、日本政府は承認していない国である。
 
 
*韓国との国交
朝鮮半島の大韓民国とは、1965年に<big>日韓基本条約</big>(にっかん きほんじょうやく) により、日本と韓国との国交が回復した。
なお、北朝鮮とは、2014年の時点では、まだ日本との国交は、むすばれていない。
 
 
== 中東戦争とオイルショック ==
1973年の第四次中東戦争により、原油の価格が値上がりした。これによって世界的な不景気になった。日本では、連鎖的に物価もあがっていった。このころの石油価格の上昇による不景気を'''オイルショック'''(オイルショックは和製英語、英語では石油危機 oil crisis オイル・クライシス)という。日本では、オイルショックにより、高度経済成長による好景気が終わった。
 
日本の製造業では、オイルショックに耐えるための省エネルギーの技術開発が進んでいった。
 
== 現代の日本とその課題 ==
=== バブル経済 ===
1980年代には、日本は世界の中でも経済大国になっていた。
 
1980年代の終わり頃には、土地の地下や株の株価の値上がりを期待して、取引が活発になっていった。やがて、地価や株価が値上がりがしすぎて、1991年ごろから地価や株価が下がり始めた。
 
株価などが下がり始めると、多くの証券会社が経営難におちいっていった。経営破綻した証券会社もある。また、銀行も株価や地価の値上がりを前提に融資の貸し出しをしていたので、株価が下がりはじめると、銀行の経営も苦しくなっていった。大手の銀行どうしは、合併などをしていって、この危機をのりきっていった。
 
 
直接は株取引をしていない企業も、株価や地価が高い好景気を前提にした事業計画を立てていたりしていたので、いったん株価が大きく下がり始めると、経営がくるしくなっていき、多くの会社が経営難におちいり、多くの会社が倒産していった。また倒産していない企業でも、従業員の解雇もふえていったり、事業の見直しによる事業の縮小や事業撤退や事業転換などが行われた。
 
こうして「平成不況」(へいせい ふきょう)と言われるになっていった。
「平成不況」といっても、けっして1991年以降は株価が下がりっぱなしだったわけではなくて、コンピューター業界の好景気によるITバブル(アイティーバブル)と言われる部分的な好景気も1990年代後半から2000年代前半あった。
 
日本の機械工業などの製造業は、この「平成不況」を技術開発によって乗り切ろうとしたので、すでにバブル崩壊の時点でも技術力の高かった日本の工業は、ますます技術力が上がっていき、現在(2014年に記述。)の日本は世界の中でも高度な技術を持った工業大国になっていった。
(バブルの前から、中国や韓国などの低価格な輸出品に対抗するため、日本の製造業は技術開発を重視していた。)
 
しかし、日本は技術力の高さが製造業などの一部の業界だけにとどまり、コンピュータ業界などの技術力はアメリカにおくれをとっているなどの問題もある。また電子工業では、日本企業は技術力は高いものの、その能力を商品販売にうまく結びつけられず、よって韓国や台湾などの新興国との競争に苦しめられ、日本の電子工業業界などの企業は経営が苦しくなっていってるという問題点もある。
 
=== 冷戦の終了 ===
1970年代ころから、冷戦では、ソビエトの工業がおくれはじめ、ソビエトは経済でも行きづまっていった。
1979年のソビエトによる アフガニスタン侵攻(Soviet war in Afghanistan) もあり、米ソでは軍事費が増大した。
アメリカはミサイル防衛計画などを発表し、巨額の軍事費を軍事の技術開発に投資した。ソビエトは経済がくるしいにもかかわらず、ソビエトも、アメリカに軍事的に対抗するため、ソビエトは予算を軍事費につぎこんだので、ソビエトの経済はますます苦しくなっていった。そして、ついに共産主義経済が、行きづまりそうになった。
 
そのため、ソビエトは改革をおこなって、経済を活性化することを考えた。
 
1985年にはソ連で当時の最高指導者の<big>ゴルバチョフ</big>(ロシア語:Горбачёв、ラテン文字:Gorbachev) によるゴルバチョフ政権が出来て、そしてゴルバチョフは共産主義的な経済手法をあきらめ、市場経済の導入や、情報公開などの改革をおこなった。このゴルバチョフの改革を <big>ペレストロイカ</big>(ロシア語:перестройка、ラテン文字表記:Perestroika) と言う。ペレ・ストロイカとは、ロシア語で「再建」という意味である。
 
しかし、この改革により、ソ連の国内では自由化をもとめる声がつよまっていった。また、東欧ではソ連からの独立をもとめる声がつよまっていった。
 
そして、1989年に、ゴルバチョフとアメリカのブッシュ大統領とが地中海のマルタで会談し、ついに冷戦の終了を宣言した。
それからソ連は解体されていった。
 
1990年には、東西に分裂していたドイツが統一した。当時ドイツの行き来をさまたげていた ベルリンの壁(ベルリンのかべ、ドイツ語: Berliner Mauer) は、民衆たちによって壊された。
 
そして、1991年にはロシアやウクライナなどのソ連を構成していた国々が分離して独立した。ソ連にかわって、ロシアやウクライナなどのかつての構成国により、独立国家共同体(どくりつこっか きょうどうたい)が結成された。
 
=== 湾岸戦争 ===
中東では、1990年に、イラク共和国(Iraq)がクウェート国(Kuwait)に侵攻したことがきっかけで、湾岸危機(わんがん きき、Gulf Crisis)がおこり、その後、アメリカが報復のために1991年にイラクに攻め込んだ。この戦争を 湾岸戦争(わんがん せんそう、Gulf War) と言う。アメリカは外国にも参戦を呼びかけたので、アメリカを中心とする多国籍軍(たこくせきぐん、Coalition forces)が結成され、多国籍軍とイラクとの戦争になった。
アメリカをはじめとする国際社会は日本にも参戦をよびかけたが、日本は自国の憲法を理由に参戦せずに、かわりに財政援助によって多国籍軍を援助した。
 
勝利したのはアメリカ側である。イラクは敗北した。イラクの独裁者のサダム=フセインの政権は、戦後も続いた。
 
日本は、財政援助をしたにもかかわらず、国際社会からは、参戦しなかったことを理由にした低い評価がされた。
 
=== 中国 ===
中国大陸の中華人民共和国では、第二次大戦後に共産党が国民党から政権をうばってから、ずっと共産党による独裁がつづいている。
 
(※ この節では、たんに「中国」といったら、中華人民共和国のこととする。台湾の中華民国政権のことを言う場合には、この節では「台湾」や「中華民国」などと区別することにする。
 
1989年には、天安門で民主化をもとめる学生の抗議運動がおきたが、この運動は弾圧された。この天安門での抗議運動に関する事件を 天安門事件(てんあんもん じけん) と言う。
 
中国は、経済を活性化するために、市場経済の導入をおこなった。そして中国は経済大国に成長していった。こうして、中国は、経済の規模がアメリカにつぐ、経済大国になった。
 
しかし、中国では、あいかわらず民主化がなされずに共産党による独裁がつづいている。
 
また、中国は周辺国と領土問題でもめている。日本とは日本の尖閣諸島(せんかく しょとう)の領有に、中国は反対をしている。
 
2010年には、中国の漁船が、日本の海上保安庁の漁船に衝突する事件が起きた。
 
また、中国と東南アジア諸国とのあいだでは、スプラトリー諸島(Spratly Islands、 中国名:南沙(ナンシャー)諸島 )をめぐって、ベトナム、フィリピン、マレーシア、ブルネイと領土問題がある。
 
=== アメリカ同時多発テロ ===
[[ファイル:WTC smoking on 9-11.jpeg|thumb|300px|ハイジャックされた航空機の衝突で炎上する世界貿易センタービル]]
2001年、アメリカのニューヨークで、何者かによる航空旅客機のハイジャックによるテロ事件が起こり、多くの乗客が死んだ。その後すぐに、このハイジャック犯の正体は、アルカイダ(英語: Al-Qaeda)というイスラム系の過激派組織の一味だということが分かった。
このアメリカでの2001年のテロ事件を アメリカ同時多発テロ などと言う。
 
アメリカは、このアルカイダをかくまっていたアフガニスタンのタリバン政権を攻撃し、戦争になった。
 
==== イラク戦争 ====
アフガニスタン攻撃の後のころ、イラクには大量破壊兵器を開発しているという疑惑があった。国連はこの疑惑を調べようとしたが、イラクは国連の調査に協力的でなかった。
 
アメリカはイラクが大量破壊兵器を開発していると判断し、2003年にアメリカはイラクを攻撃した。
これを イラク戦争(イラクせんそう、英:Iraq War) と言う。
 
イラク戦争ではアメリカが勝利した。
 
ドイツやフランスなどは、イラク攻撃の理由が不十分だとして、アメリカの戦争には参加しなかった。
 
イラク戦争によってサダム・フセイン政権は崩壊した。しかし、イラクではフセインの独裁がなくなったことにより、それまでフセイン政権の軍事力をおそれていたテロ組織がイラクで活動するようになった。そして、イラク戦争後にイラクを占領していたアメリカ軍やアメリカ軍の協力者には、テロによる多くの死者が出た。
 
しかし、イラクは実は大量破壊兵器を開発しておらず、国連の調査に協力しなかったのは、イラクが大量破壊兵器を開発しているように見せかけることで、イラクの国際社会への影響力を強めようとしたフセインのウソであることが判明した。
 
イラク戦争が、フランスやドイツなどの大国を無視して行われたので、国際社会でのアメリカの影響力が落ちていった。
 
日本は2004年に、イラクの復興支援のため、自衛隊をイラクに派遣した。(※ 検定教科書の範囲内です。東京書籍の教科書の、巻末の年表にある。)
 
== 資料 ==