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椎楽 (トーク | 投稿記録)
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*[[高等学校世界史B/17〜18世紀のヨーロッパの文化と社会]]のコラムを修正予定。専攻が近代哲学だから私もスコラ哲学には批判的だが、あまりにもこれはひどすぎる。デカルトの理解も一面的に過ぎる。
*[[中学校社会 歴史/第二次世界大戦]]――「教えるべきこと」「できれば教えた方がいいこと」「指導側は知っておいた方がいいが教科書に乗せる必要はないもの」「タダのウンチク(しかも不正確or何の説明にもなってない無意味無内容)」の区別がついていない雑多な内容。要整理。
*[[中学校社会 公民]]――素人の法律談義(判例集とか専門家の見解の紹介、専門書を元にした展開もなくただ「法律にこう書いてある」としか述べていないなど。)、主執筆者の独断と偏見、歴史同様の雑多な内容が混在。このままでは害悪。
 
文章と文章の間の丸カッコは私椎楽のツッコミ
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(↑ツッコミ:そんなわけがない。コギト原理と言われる、デカルトの思想の出発点だ。理系様にも分かるように言えばユークリッドの『原論』の5つの公準を「当たり前でどうでもいいこと」というのと変わらない。『省察』やその他の真っ当な解説くらいは読んでから言え)
 
(修正:倫理でも紹介されている、デカルトの格言「われ思う、ゆえにわれあり」は、デカルトの主著『方法序説』に書かれている。では、どうしてデカルトはそのような考えに至ったのだろうか。思想については「倫理」を見てもらことにして、ここでは彼の生きた時代に注目してみよう。そもそも、この時代は三十年戦争をはじめとした、カトリックとプロテスタントの宗教戦争がはげしい時代であった(戦闘はなかったがデカルトも三十年戦争に従軍している)。また、科学的な発見も相次ぐ中で知識のアップデートも盛んに行われていたが、それは「何が真に正しいことなのか分からない」ということでもあった。つまり、正しさを保障してくれるものは何なのかが全く見通しを立てられなかった。)
 
それゆえに、デカルトはいくら疑っても疑いえないもの(明晰判明)を真理の基準とした。)
 
この『方法序説』は、科学研究の方法論について書かれた書物であり、その主張内容も、