「中学受験社会/歴史/上巻」の版間の差分

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=== {{ruby|氷河期|ひょうがき}} - 1万年前のくらし ===
 
大昔、 (具体的には1万年くらい前) までは、地球は'''{{ruby|氷河期|ひょうがき}}'''と言って、今よりも冷えていたのです。その結果、海水面は今よりも低く、ユーラシア大陸と日本は陸続きだったのです。そのため、大陸の北の方から'''マンモス'''や'''オオツノ鹿'''が、南の方から'''ナウマン象'''などの陸上動物が日本にやってきました。これらの動物の {{ruby|化石|かせき}}が、日本列島でも発見されています。
 
[[File:Sinomegaceros yabei - National Museum of Nature and Science, Tokyo - DSC06925.JPG|thumb|left|200px|オオツノシカの{{ruby|骨格標本|こっかくひょうほん}}]]
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地球の氷河期から数千年たつと、氷河期が終わり、地球は暖かくなり、海面は上昇し、日本列島は海に周囲を囲まれた島になりました。
 
このころ、日本列島に住んでいる人々は、土器 (土器) を作りだしました。その土器に縄の模様がついているので、この土器は {{ruby|'''縄文土器'''|じょうもんどき}} と呼ばれます。
 
今から約1万6,500年前 (紀元前145世紀) から、今から約3,000年前 (紀元前10世紀) あたりまでの時代を、{{ruby|<span style="color:red">'''縄文時代'''</span>|じょうもんじだい}}と言います。
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[[Image:JomonStatue.JPG|thumb|right|200px|亀ヶ岡遺跡で出土した土偶]]
縄文時代の遺跡から、{{ruby|<span style="color:red">'''土偶'''</span>|どぐう}}という、女性のような形の、土を焼きかためた人形が見つかる場合があります。土偶 (どぐう) は、食料が増えることを祈ったり (いのったり) 、女性の安産 (あんざん) をいのったものだと考えられていますが、本当なのかは不明です。
 
 
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[[ファイル:DotakuBronzeBellLateYayoi3rdCenturyCE.jpg|thumb|銅鐸 (日本の青銅器) ]]
 
大陸や朝鮮半島から米作りがつたわると共 (とも) に、青銅器 (せいどうき) や鉄器 (てっき) などの金属器 (きんぞくき) が、伝わります。そして、日本でも、弥生時代中に、金属器がつくられるように、なります。
 
青銅 (せいどう) とは、銅 (どう) と すず とを、とかして、まぜあわせた金属でつくられた、合金 (ごうきん) です。
 
「すず」とは、金属の材質 (ざいしつ) のうちの、ひとつです。
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そして、これら30あまりの国をしたがえた <span style="color:red">'''邪馬台国'''</span> (やまたいこく) が、日本に ありました。邪馬台国で、代表的な地位にあった人間がいます。名を <span style="color:red">'''卑弥呼'''</span> (ひみこ) という人物で、女の人物です。
 
倭人伝によると。倭 (わ) の国では、もともとは男の王をたてていたようですが、戦争が続いたので、卑弥呼を女王にしたらしいようです。
 
 
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|}
 
日本では、6世紀ごろから、<span style="color:red"><big>豪族</big></span>(ごうぞく)の影響力(えいきょうりょく)が強まってくる。豪族の反乱や、豪族どうしの争い(あらそい)が出てくる。
 
まず、527年に、今の福岡県にある、筑紫(つくし)の豪族である磐井(いわい)による反乱が起こる。
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日本では、蘇我馬子の権力が強くなり、天皇にも、蘇我氏と血縁のある妃(きさき)が産んだ 用明(ようめい)天皇 や 崇峻(すしゅん)天皇 などを皇位に即位させた。
 
崇峻天皇が馬子による独裁的な政治を嫌うと、馬子(うまこ)たちは、崇峻天皇を暗殺(あんさつ)するという事件を起こす。
 
このような国難(こくなん)に、当時の大和朝廷は、みまわれていた。
 
 
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聖徳太子は蘇我馬子と協力し、これらの改革(かいかく)をすすめる。
 
改革と言っても、聖徳太子の改革は、あくまで天皇の権力を強めるための改革であり、けっして現代で言うような民主主義(みんしゅしゅぎ)をもとめての改革ではないので、混同しないようにしよう。
 
聖徳太子の改革は、けっして、蘇我氏を権力から退ける(しりぞける)ためでも、ありません。そもそも、聖徳太子自身が、蘇我氏の親戚(しんせき)です。
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役人の心がまえを、記したものです。豪族などに対して、役人としての心がまえを述べたものでしょう。
 
内容を現代風に訳す(やくす)と、およそ、次のようなことが書かれています。
 
:1条 :争い(あらそい)をやめ、なかよくしなさい。
:2条 :仏教(ぶっきょう)を保護しなさい。
:3条 :天皇の命令には、したがいなさい。
:12条 :百姓(ひゃくしょう)などの民(たみ)から、かってに税(ぜい)や貢物(みつぎもの)をとっては、いけません。
:17条 :重要なことを決める(きめる)ときには、話し合いで決めなさい。
 
その他にも、いろんなことが書かれていて、全部で17条あるので、十七条の憲法(じゅうななじょう の けんぽう)と言います。
もともとの文は漢文(かんぶん)で書かれています。この聖徳太子の時代には、まだ、ひらがなが、ありません。のちの歴史書の『日本書紀』(にほんしょき)に、十七条の憲法の原文があります。
 
原文は、けっこう長いです。
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といったふうに、書かれています。
 
十七条の憲法は、「憲法」と言っても、現代の日本の「日本国憲法」(にほんこく けんぽう)のような、他の法律の基本となる民主主義(みんしゅしゅぎ)の理念(りねん)や、日本国の国家理念(こっかりねん)がふくまれたものとは、ちがうので、混同しないでください。
 
 
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聖徳太子らの行った重要(じゅうよう)な政策(せいさく)には、外交政策(がいこうせいさく)も、あります。中国大陸を支配していた<big>隋</big>(ずい)という帝国(ていこく)との外交(がいこう)です。ある国と、別の国とが、政治の取り引きをすることを外交(がいこう)と言います。
 
607年に、外交の使者として <span style="color:red"><big>小野妹子</big></span>(おのの いもこ)たちを 隋(ずい)に送ります。<span style="color:red"><big>遣隋使</big></span>(けんずいし)の派遣(はけん)です。
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なお、小野妹子(おのの いもこ)は男です。小野妹子は女では ありません。小野妹子は妹(いもうと)でも ありません。
 
隋(ずい)に外交の使者(ししゃ)を派遣(はけん)するので「遣隋使」(けんずいし)と言います。
 
外交の結果、日本は隋と国交(こっこう)を結びます。国交とは、それまで、つきあいのなかった2つの国どうしが、平和(へいわ)に、かかわりを持ち始めることです。
また、隋(ずい)の文化や制度は日本よりも進んでいたので、多くの文化や制度を、日本は取り入れます。
 
隋と国交をむすぶとき、日本は、隋と日本とを対等(たいとう)の立場で、国交を結ぼうとします。そして、対等の立場で国交をむすぶことに、日本は成功します。
 
それ以前の外交では、中国大陸の帝国には、周辺国が貢物(みつぎもの)を持ってきて、中国の帝国の属国として外交をむすぶことが、ふつうでした。
 
当時の隋は、朝鮮半島の高句麗(こうくり)と敵対(てきたい)していたので、高句麗と日本が協力することを恐れた(おそれた)のだろう、と言われています。
 
 
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ほかにも、日本のことを「日出ずる処」と書いて、隋(ずい)を「日没する処」と書いてあります。
 
当初、この日本からの国書を読んだ隋の皇帝の煬帝(ようだい)は、日本を無礼(ぶれい)な国と思い怒った(おこった)といいます。
 
『隋書』には、漢文で書かれています。これを日本語に読み下すと
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ですが、隋の皇帝・煬帝(ようだい)は高句麗との戦争を有利にすすめるため、隋は日本に良い待遇(たいぐう)をしたわけです。
 
日本の側も、隋と高句麗都との敵対した情勢(じょうせい)に関する情報(じょうほう)をつかんでおり、その情勢を利用して外交での交渉(こうしょう)に利用したわけです。
 
 
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[[File:Shakyamuni Triad Horyuji2.JPG|thumb|法隆寺の釈迦三尊像(金堂)]]
 
聖徳太子は、法隆寺を、607年に、建て(たて)させます。法隆寺の場所は、今でいう奈良県にあります。法隆寺は、現存する木造建築の中で、世界最古の木造建築です。法隆寺は、世界文化遺産に1993年に登録されました。
 
法隆寺には、 <big>釈迦三尊像</big>(しゃか さんぞんぞう) や <big>百済観音像</big>(くだらかんのんぞう) 、おさめられている。
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原則として、6才以上の男に2反(720歩=約24アール)の田を与え、女(6才以上)には男の3分の2(480歩=約16アール)の田を与えています。5才以下には与えられません。
 
死んだ人の分の田は、国に返すことになっていました
 
 
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税(ぜい)の種類です。
 
祖(そ)とは、田の収穫量の、およそ3%を、国に納めよ(おさめよ)、という税です。
調(ちょう)とは、絹(きぬ)や、地方の特産物を、国に納めよ、という税です。
 
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* 白村江の戦い(はくすきのえ の たたかい)
日本は百済を復活(ふっかつ)させるため、新羅と戦争をします。663年に、中大兄皇子の指導により朝鮮半島に軍を送り、日本 対 新羅の戦争が起きます。これが<big>白村江の戦い</big>(はくすきのえ[はくそんこう] の たたかい) です。日本は負けます。新羅と唐の連合軍に、日本は負けました。
 
なお、後に新羅は676年に高句麗(こうくり)も滅ぼし、朝鮮半島を統一することになります。
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==== 日本国内の強化 ====
白村江の戦い にやぶれた日本は、国内の政治に集中します。中大兄皇子は、唐と新羅の攻撃にそなえるため、九州の防備を強化します。九州北部に <big>防人</big>(さきもり) という防衛(ぼうえい)のための兵士たちを置き、水城(みずき)という土塁(どるい)と濠(ほり)を作ります。さらに北九州や瀬戸内海周辺の西日本の各地に山城(やまじろ)を作ります。
 
 
667年に、中大兄皇子は都を移します。奈良の飛鳥(あすか)から、今でいう滋賀県である近江(おうみ)に都を移します。大津宮に都が移ります。
この都を近江(おうみ)にうつしたことも、攻撃に備えて(そなえて)なのかもしれません。近江は、飛鳥よりも内陸にあります。
 
 
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:大蔵省(おおくらしょう)の仕事は、物資の管理や財政。
:宮内省(くないしょう)の仕事は、宮中の事務や庶務。
:治部(じぶしょう)の仕事は、儀式や外交。
 
== 奈良時代 ==
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朝廷は税を増やすため、田を増やす必要があり、そのため、法律を変え、開墾した3代にわたり、田を所有できるように法を制定した。これが <big>三世一身の法</big>(さんぜい いっしん の ほう) であり723年の出来事である。
 
さらに743年には、期限が無く所有し続けられる <big>墾田永年私財法</big>(こんでん えいねん しざい ほう) が制定された。
 
これは、つまり公地公民の原則を廃止したことになる。
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<big>行基</big>(ぎょうき)という僧(そう)がいました。彼は、民衆のために用水の池や端をつくったりしながら、諸国をまわって教えをといていたので、民衆に、したわれていました。
しかし、朝廷は、はじめは、行基の行動をとりしまります。当時は、民衆への仏教の布教が禁止されていたし、寺の外での活動も禁止されています。
朝廷からは、おそらく行基は、民衆をそそのかす危険人物(きけんじんぶつ)だろう、と思われていたのです。
 
 
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「ホーホケキョー」とウグイスは鳴きますが、それと「へいあんきょう」をかけたダジャレの語呂合わせ(ごろあわせ)です。
 
平安時代(へいあんじだい)の当時(とうじ)に、こういうダジャレがあったわけでは、ありません。現代(げんだい)の私たちが、歴史上(れきしじょう)の出来事(できごと)のおきた年(とし)をおぼえるための語呂合わせ(ごろあわせ)です。
 
[[画像:HeiankyouMapJapanese.svg|900px]]
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他にも、社会の変化で、もはや、公地公民による昔(むかし)の政治が上手くいかなくなり、政治のしかたを改める必要もあったのだろう。
 
平安京に都を移してから約400年間は、政治の中心地は平安京だったので、この時代を <big>平安時代</big>(へいあんじだい) という。
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くわしくいうと、後に1192年に武士である源頼朝が権力をにぎる鎌倉幕府(かまくら ばくふ)ができますが、794年から1192年までを平安時代と言うことが多い。
 
なお、平安時代より、あとの武士による政治の時代になっても、都は平安京のままです。明治時代に東京に都が移るまでは、平安京が日本の都でした。平安京のつくりは、唐の都である 長安(ちょうあん) を、参考(さんこう)にしています。
 
桓武天皇は、公地公民が上手くいかない理由の一つである、税負担の重さに改革の手をつけます。
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田村麻呂は、アテルイの命を助けるよう減刑をもとめましたが、貴族たちの反対により、アテルイは処刑されました。
 
東北での戦争のさい、胆沢城(いさわじょう、場所は岩手県) などが田村麻呂らにより築かれ(きずかれ)、朝廷による東北支配の拠点になります。
 
 
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これら不輸不入の権もあり、貴族の荘園は、どんどんふえていき、朝廷の税収は減るので財政は悪化し、律令政治が上手くいかなくなります。
 
有力な貴族でない者の荘園は国司に取り上げられたり、他の豪族にうばわれることもあったので、そのような有力でない者は、朝廷の有力な貴族に、形式的だが荘園を寄付(きふ)した。これを<big>寄進</big>(きしん) という。
 
 
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藤原氏の一族は、代々、娘を天皇の妃(きさき)にしています。
すると、藤原氏は天皇の母方(ははかた)の親戚(しんせき)ということになるので、藤原家の権力が強まる、という仕組みで、さらに権力を強めました。
 
[[File:Fujiwara no Michinaga 2.jpg|thumb|300px|藤原道長(ふじわらの みちなが)]]
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道長の読んだ歌で、つぎの歌があります。
 
:<big><big>「この世(よ)をば わが世(よ)とぞ思ふ(おもう) 望月(もちづき)の 欠けたる(かけたる)ことも なしと思へば(おもえば)」</big></big>
 
意味は、「この世は 自分(道長)のためにあるようなものだ 望月(=満月)のように 何も足りないものはない」という意味です。
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:そして、歌をよまれた。「この世をば 我が世とぞ思う 望月の 欠けたることも なしと思わば。」と。
 
:::私は答えた。「とても、すばらしい歌です。かえす歌も作れません。(道長いがいの)みんなで、このお歌を唱和(しょうわ)するのがよろしいでしょう。」ともうしあげた。みんなも、私の言葉におうじ、この歌を唱和した。道長さまは、たいそう気をよくして、歌をかえさなかった私をせめなかった。
 
:(『小右記』(しょうゆうき)より。藤原実資(さねすけ)の日記。一部分。)
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遣唐使の廃止の理由は、すでに唐から多くのことを学んであること、中国大陸で内乱が多く唐が弱っていること、船の遭難(そうなん)など死の危険が多く有能な人材の命を損ないかねないこと、経済的(けいざいてき)な負担(ふたん)が大きい、などです。
 
この遣唐使の廃止により、日本の貴族文化では、だんだん、中国大陸の文化の影響(えいきょう)が、うすれていきます。
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* かな文字の発明
ひらがな や カタカナ などの <big>かな文字</big>(かなもじ) が、平安時代に発明されます。
ひらがなは、漢字の形をくずして、発明されました。カタカナは漢字の へん や つくり などの一部をもとに発明されました。
[[ファイル:Katakana origine.svg|thumb|left|300px|カタカナの由来]]
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大和絵にも、「源氏物語絵巻」(げんじものがたりえまき)が、描かれました。絵画を使って、物語を絵で表したものを絵巻物(えまきもの)といいます。
 
随筆では、貴族の清少納言(せい しょうなごん)が『枕草子』を記しました。清少納言が 日常生活や自然を観察して、感想を述べたものです。
清少納言は女です。
 
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[[ファイル:Byodoin Amitaabha Buddha.JPG|thumb|200px|left|阿弥陀如来像 (平等院・鳳凰堂)]]
浄土教という信仰が流行るようになる。阿弥陀如来(あみだにょらい)にすがり、「{{ruby|南無阿弥陀(ねん|なむあみだぶつ}}」と念仏を唱えていれば、死後には、極楽浄土へ行ける、という信仰である。
 
浄土教を布教した人物では、<big>空也</big>(くうや)という人物が有名である。空也(生:903年〜没:972年)は、10世紀中ごろ、諸国をまわり、庶民に浄土教を布教していた。「南無阿弥陀仏」(なむあみだぶつ)という念仏を唱えるとよい、と空也は民衆たちに広めたという。人が集まる市(いち)で布教していたことから、空也は、市聖(いちのひじり)とも呼ばれます。
 
仏教の教えによると、1052年は釈迦が死んでから1000年後ということらしく、死後1000年ともなると釈迦の教えがおとろえて世の中が悪くなるという思想があり、この思想は <big>末法</big>(まっぽう) と言われた。この末法思想もあって、浄土信仰は広まっていった。
1,096 行
平安時代には、地方の豪族たちは私有地を広げていったのであった。
 
9世紀の中ごろから、豪族や有力な農民たちは、自分たちの土地や財産をまもるためには、兵力(へいりょく)をたくわえていった。一族の者や、手下の農民たちに武装させるようになった。
 
このようにして、<span style="color:red"><big>武士</big></span>(ぶし)が、できていった。
 
武士たちは、一族の かしら を棟梁(とうりょう)として、それぞれの一族ごとに<big>武士団</big>(ぶしだん)を結成(けっせい)していった。
 
貴族の中にも、これにならい、武士団をつくり棟梁となって兵を指揮する者が、地方貴族から出てきた。源氏や平氏などが、そのような貴族の武士である。
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* 平氏の台頭(たいとう)
清盛は、武士の力を利用しようとする後白河上皇との関係を深めます。
1167年には、清盛は武士としては初めて(はじめて)の太政大臣(だじょう だいじん)になります。
 
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