「中学受験社会/歴史/下巻」の版間の差分

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== 明治の経済の変化と文化 ==
=== 財閥 ===
明治のはじめごろ、政府は工業をさかんにするため、官営の工場を経営していました。しかし、政府にとってこれらの工場経営は財政の負担になた。てい。そこで西南戦争後から政府は官営工場の経営をすると、民間の工場の仕事を会社へ安く売り払うよばっていることも、ってし
なので、政府は官営工場の民間への払い下げを1880年代に行った。
 
この払い下げをうけた会社が、三井(みつい)・三菱(みつびし){{ruby|古河|ふるかわ}}などであった。これらの企業はいろいろな業種の会社を持つ大会社になっていきます。そして、{{ruby|財閥|ざいばつ}}と呼ばれるようになります。
 
=== 日本の産業革命 ===
明治時代の日本の重要な輸出品は生糸や綿糸でした。それを大量に作るために、イギリスから輸入した{{ruby|紡績機|ぼうせきき}}を導入します。イギリスの紡績機は、蒸気機関を動力として用いる、最新の紡績機でした。日本でも、紡績機を改良していきました。このよして、繊維工業を中心に、日本の軽工業は発展していきました。原料の綿などは、中国(清)やインドなどから安い値段のものが輸入され、そのため日本の農家は打撃を受けました。
 
1901年に、日清戦争の賠償金をもとにたてられた{{ruby|'''八幡製鉄所'''|やはたせいてつじょ}}の操業が1901年に北九州で始まります。八幡製鉄所は、日清戦争の賠償金をもとにたてられましたが、日本での重工業の発展のきっかけになりました。
原料の綿などは、併合した朝鮮や、獲得した満州などから安い値段のものが輸入され、そのため日本の農家は打撃を受けました。
 
一方で、自分の土地をもたない小作人が増えました。主に指摘される点は以下のとおりです
八幡製鉄所(やはたせいてつじょ)の操業が1901年に北九州で始まります。八幡製鉄所は、日清戦争の賠償金をもとにたてられましたが、日本での重工業の発展のきっかけになりました。
#税が地租改正によって、現金で払う税金になり、現金収入が少ない農民借金などで土地を手放さざるをえなくなっていった。
 
一方で、自分の土地をもたない小作人が増えました。
理由はいくつかあるが、よくある説は・・・
#税が地租改正によって、現金で払う税金になり、現金収入が少ない農民が借金などで土地を手放さざるをえなくなっていった。
#1880年代ごろ、農作物の値段が急落して、土地を手放さざるをえない農民が増えた。
#朝鮮や清国との貿易で、安い農産物が日本に入ってきて、日本の農家は競争にさらされ経営が苦しくなった。
など。
 
農村収入が少ない農民は、都市に出稼ぎに出るようになりました。貧し農家の娘などは、紡績工場などの工場などで女工としてはらくこともあました。女工は、12時間を越えるような長時間労働・安い賃金ではたらかされました。
貧しい農家の娘などは、紡績工場などの工場などで女工(じょこう)としてはたらくこともあった。
 
日本の輸出品の生糸や綿製品などは、この女工などの、安い賃金の労働によって、ささえられていたのである
女工は、長時間労働で、安い賃金(ちんぎん)で、はたらかされた。それでも、その娘には、ほかに仕事先がないので、その仕事先で、はたらかざるをえなかったのだろう。
 
明治時代よりも少し後ですが、1925年の『女工哀史』(じょこう あいし)というに{{ruby|細井和喜蔵|ほそいわきぞう}}という{{ruby|機械工|きかいこう)の労働者}}が自らの体験をもとに書いた『'''女工哀史'''』、1925年と時代は少しあとの時代だが、このような女工たちのつらい状況が書かれています
日本の輸出品の生糸や綿製品などは、この女工などの、安い賃金の労働によって、ささえられていたのである。
 
==== 足尾銅山(あしお どうざん)の鉱毒(こうどく)事件 ====
1925年の『女工哀史』(じょこう あいし)という細井和喜蔵(ほそいわきぞう)という機械工(きかいこう)の労働者が自らの体験をもとに書いた本に、1925年と時代は少しあとの時代だが、このような女工たちのつらい状況が書かれている。
 
==== 足尾銅山(あしお どうざん)の鉱毒(こうどく)事件 ====
[[Image:Ashio Copper Mine circa 1895.JPG|thumb|250px|1895年頃の足尾鉱山]]
栃木県にある足尾銅山では、明治時代ごろには、全国の生産の3分の1の銅を生産していました。しかし、鉱石の処理の安全対策が不十分なままだったので、工場からの排水には有毒物質(鉱毒)を大量に含んでいました。これが{{ruby|渡良瀬川|わたらせがわ}}に流れ込み、川の魚が死に、農作物などは枯れていきました。
ここで公害事件がおき、鉱石の処理の安全対策が不十分なまま、工場からの排水(はいすい)中に有毒物質の「鉱毒」(こうどく)が周辺の渡良瀬川(わたらせがわ)に流れ込み、川の魚が死に、農作物などは枯れて(かれて)いった。
 
ほかにも、工場の排煙から排出さに含まれる亜硫酸ガスによって、周辺の山の木や草は枯れていき、はげ山になりました。はげ山 になると、そのせいで洪水おきやすくなるので、鉱毒でよごれた川の水が広がっていき、ますます被害は拡大しました。さらに、人間も病気になっていった。眼病にかかったり、胃などの内臓の病気にかかっていった人がふえ、鉱毒によると思われる死者も増えました。
作物だけでなく、人間も病気になっていった。死者もふえていった。眼病にかかったり、胃などの内臓の病気にかかっていった人がふえてきた。
 
[[ファイル:Shozo Tanaka.jpg|thumb|200px|田中 正造(たなか しょうぞう)]]
衆議院議員の<big>{{ruby|'''田中 正造</big>('''|たなか しょうぞう}}は、これらの原因は足尾銅山の鉱毒のせいであるとして議会でうったえました。だがしかし、政府は対策をとられなかっ行いませんでした。
 
田中正造は、世論にうったえるた議員を辞天皇に直訴しようとした。そのため、議員をやめて、それから天皇に直訴にいったが、天皇の近くで警官に取り押さえられまし。しかし、直訴のことが新聞などに報道され、鉱毒事件が世間に広く知られるようになります
 
だが、直訴のことが新聞などに報道され、この足尾銅山の鉱毒事件が世間に広く知られた。
 
足尾銅山鉱毒事件は日本最初の公害事件とも言われています。
=== 明治の学問や文化の変化 ===
==== 自然科学 ====
* 医学
**北里 柴三郎
**北里 柴三郎……::ペスト菌の発見。破傷風の{{ruby|血清療法|けっせいりょうほう}}の発見<ref>治療法につかわれる「血清」(けっせい)という医学技術は、小学校の範囲外だが、学習マンガとか見れば書いてあると思うから、読者の小学生はそういう本で勉強してください。</ref>。破傷風という病気の治療法を開発し、そして北里の名前は世界に広まり、また、日本の医学も世界に認められていきました。また、北里は、日本で伝染病の研究所(北里研究所)をつくりました
**志賀 潔……{{ruby|赤痢|せきり}}菌の発見。
**志賀 潔
**野口 英世……蛇の毒の研究、アフリカでの医療活動および感染病の感染経路の研究。しかし、{{ruby|黄熱病|おうねつびょう}}の治療法研究では、成果なし。研究中に本人が黄熱病にかかり死去。
**志賀 潔……::{{ruby|赤痢|せきり}}菌の発見。
**野口 英世
野口英世は、::始めヘビ毒の研究や{{ruby|梅毒|ばいどく}}などの研究をしました。その後、野口は原因不明の{{ruby|黄熱病|おうねつびょう}}の研究のため、その病気の発生地帯の南米のエクアドルやガーナなどに渡り、現地で研究をつづけていましたが、野口みずからが黄熱病に感染してしまい、なくなりました。
 
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ファイル:Noguchi Hideyo.jpg|野口 英世(のぐち ひでよ)
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北里柴三郎は、破傷風という病気の治療法を開発し、そして北里の名前は世界に広まり、また、日本の医学も世界に認められていきました。また、北里は、日本で伝染病の研究所(北里研究所)をつくりました。
 
志賀潔は、北里のもとで研究をし、赤痢菌を発見しました。
 
野口英世は、始めヘビ毒の研究や{{ruby|梅毒|ばいどく}}などの研究をしました。その後、野口は原因不明の黄熱病の研究のため、その病気の発生地帯の南米のエクアドルやガーナなどに渡り、現地で研究をつづけていましたが、野口みずからが黄熱病に感染してしまい、なくなりました。
 
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