「中学受験社会/歴史/下巻」の版間の差分

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'''第一次世界大戦'''は、ドイツ・オーストリア・トルコなどの陣営と、イギリス・フランス・ロシアなどによる陣営との戦争です。
 
遅れて近代化したドイツは、急激な勢力拡大をはかりましたが、すでに広い植民地などを持っていたイギリス・フランスとの対立も激しくなりました。そこで、ドイツ・オーストリア・イタリアの三国は'''三国同盟'''を結びました<ref>後にイタリアは同盟から離脱しかわりにトルコが同盟に加わります。</ref>。のちに、ドイツと協力したオーストリアやトルコなどの国々は同盟国と言われます。対してロシアイギリス・フランス・イギリスロシア'''三国協商'''を結び、これらの国々は連合国と言われています。
 
このように、ヨーロッパの列強諸国が対立を深める中、ヨーロッパ南東部でルーマニアやギリシャなどの国々があるバルカン(Balkan)半島の支配をめぐって、オーストリアとロシアが対立するようになりました。多くの国や民族があるバルカン半島では多くの戦争や紛争があり、バルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」と言われていました。
この戦争で、毒ガス、{{ruby|潜水艦|せんすいかん}}、戦車や飛行機が新兵器として登場し、被害をさらに大きくしていきました。
 
1914年、オーストリアの皇太子の夫妻がボスニアの首都のサラエボをおとずれていたときに、皇太子夫妻が暗殺される事件が起きました。この暗殺事件を'''サラエボ事件'''といいます。この事件の犯人はオーストリアによるボスニアの支配に反対するセルビア人の青年でした。
日本はイギリスと日英同盟をむすんでいたままなので、イギリス側である連合国の側に立って参戦しました。しかし、主な戦場であるヨーロッパから遠かったので、中国大陸の{{ruby|青島|チンタオ}}にあったドイツの基地を攻撃・占領しました。
 
この事件に対する報復として、オーストリアが1914年にセルビアに宣戦布告したのが、第一次世界大戦のきっかけです。そしてオーストリアの同盟国のドイツはオーストリアを支持しました。いっぽう、ロシアはセルビアの支持をしました。ロシアと協力関係にあったフランスやイギリスも、ロシアの支持を通して、セルビアを支持しました。こうして、世界の多くの国々をまきこむ大戦となったのです。
=== なぜ第一次世界大戦が起きたのか ===
ヨーロッパ南東部の、ルーマニアやギリシャなどのあるバルカン半島(Balkan)の支配をめぐって、オーストリア<ref>南半球のオースト「ラ」リアでなく、北半球にあるオーストリアなので、間違えないようにしましょう。</ref>とロシアが対立をしていました。
 
この戦争で、毒ガス、{{ruby|潜水艦|せんすいかん}}、戦車や飛行機が新兵器として登場し、被害をさらに大きくしていきました。
第一次大戦の前から、多くの国や民族があるバルカン半島では多くの戦争や紛争がありました。そのため、バルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」(かやくこ)と言われていました。
 
日本はイギリスと日英同盟をむすんでいたままなので、イギリス側である連合国の側に立って参戦しました。しかし、主な戦場であるヨーロッパから遠かったので、中国大陸の{{ruby|青島|チンタオ}}にあったドイツの基地を攻撃・占領しました。
1914年に、オーストリアの皇太子の夫妻がボスニアの首都のサラエボをおとずれていたときに、皇太子夫妻が暗殺される事件が起きました。この暗殺事件を'''サラエボ事件'''といいます。この事件の犯人はオーストリアによるボスニアの支配に反対するセルビア人の青年でした。
 
この事件に対する報復として、オーストリアが1914年にセルビアに宣戦布告したのが、第一次世界大戦のきっかけです。そしてオーストリアの同盟国のドイツはオーストリアを支持しました。いっぽう、ロシアはセルビアの支持をしました。ロシアと協力関係にあったフランスやイギリスも、ロシアの支持を通して、セルビアを支持しました。こうして、世界の多くの国々をまきこむ大戦となったのです。
 
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そして1917年3月に、労働者の抗議などの運動が起こり、軍隊もこの運動に同調しました。もはや皇帝を守るものはなく、ロシア皇帝のニコライ2世は退位しました<ref>ニコライ2世とその一族は、後のソヴィエト政権により処刑されます。こうしてロシアの帝政は終わました。</ref>。こうして新しい政府ができましたが、戦争は続き、労働者たちの不満は高まる一方でした。そして、11月には'''レーニン'''を指導者とするボルシェビキが革命を起こし、政権を握ります。この一連の革命を'''ロシア革命'''といいます。
 
1918年に革命によってできた政権はドイツ側と講和し、いち早く第一次世界大戦からぬけました。しかし、社会主義の広がりを警戒する国々が、ロシア国内の革命に反対する勢力を支援し、ロシアは内戦になりました。また、日本のように直接軍隊を送った国もあり、ロシアは内戦になりました(シベリア出兵)。
 
しかし、内戦は革命政権が勝利し、1922年に世界初の社会主義政権である'''ソビエト社会主義共和国連邦'''(ソ連)が建国されました。
 
=== アメリカの参戦と戦争の終結 ===
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===== 参考:ロンドン会議 =====
ワシントン会議では、補助艦<ref>巡洋艦・駆逐艦・潜水艦などの中小の軍艦のことです。</ref>の保有トン数の制限については、決まっていませんでした。そのため、かえって補助艦を大量に開発・建造するようになりました。そこで、1930年のロンドン会議(英:London Naval Conference)では、補助艦の保有トン数の制限が
:イギリス:アメリカ:日本 = 10 : 10 : 7<ref>正確には6.97。</ref>
の比率と決められました。